>学校をつくろう!

  第72号より

〜夜間中学校の教室から〜

「平仮名 リレー作文」                           夜間中学1年

   この4月に入学し、ひらがなを習った夜間中学1年生がクラスみんなでリレー方式で書き上げた作文を3作紹介します。「てにをは」や長音、拗音などの使い方にまだ慣れずに苦労しています。しかし、そこには自分の手で字を書けるようになった喜びがはっきりと表れています。中学3年の卒業間際には「文章による自画像」を書きます。このリレー物語はその一里塚になります。

A 入学して、三ヶ月になります。クラスメートの皆さんと学ぶことが、とっても楽しいです。わたしもたのしいです。→わたしもクラスートあうのかたのし。かこてこんなもねむしかしけとたのし。→私もクラスメートの皆さんが大好きです。まいにち楽しくすごしています。→みなさんの、あたたいきもちもちかうからでしです。→わたしもまいにち、がっこうにいくのがたのしいです。→私も学校に、かようようになって、みなさんと、いろんな、おしゃべりができてたのしいれす。→学校へ来るよぅになってから、よそで字を書くとき、手はふるえづにかけるよぅになりました。→字の上達に自分をほめています。子供達にもうまくなったとよろこばれています。「うれしい」。→今日もたのしい、夜間中学のみなさん、これからも、勉強も頑張りましょうね。→私はとてもかだのちようしがさはやかです。毎日とてもたのしいです。→健康がなかったら楽しみはなくなるから方だをきおつけった方がいいです。→わたしは学校にきてから初めて孫達に、手紙をおくりました。それのへんじがきました。→私にとって学校わやすらぎやじぶのこころがおちつくばしょれあり、たのしいところです。

B 犬がすきです。ねこもすきです。なくこえがすきです。→犬は好でわありません、犬もねこも嫌いです。夜になると、となりのねこがよくうんこしにきます。→わたしは、犬も、ねこもすきです。アパートらから犬も、ねこも、かえません。→私はどう物が好きけど、家が小さいから買いません。→私もとても動物が好きですけど、家で買う事ができないのが、ざんねです。→私のとこは、アトピーの孫がおり、どうぶつは。かったことは、ないです。→私はどおぶがとても大きらいです、となりのいえはネコもイヌいてこまってます。→となりの家は、犬が二ひきいます。毎朝親子で、せわするすがたを見て、感しんします。→私も朝おきると、家のまわりを、そうじします、そこえ、犬をつれて来る人がいます。→私のいえのまわりは、のみやですのでにぎやかでたのしいまい日です。→わたしのいえのまわりものみやがいがいっぱいです。カラオケがきこえます。→わたしは学校にくるのがたのしいです。はやくみんなとたのしくなかよくしたいです。→一年生の名前はおぼえましたが二年三年の名前を呼ばれる時目をきよろきよろ顔を見ています。→きょう学校にきたら、みんながなんでやすんだのときかれました。→きょうも、みなさん、勉強も。頑張りって行くよにしましょうね。

C 私は孫にはじめて手紙を書きました。→おともらちにてがみそかいてみたいです。→私も文章が書けるようになったら、お礼の手紙をだしたいと思います。→私も同感です。いつになったら戸惑はづにかけるよぅになれるかな。→私もかならす日本語で文章がかけるようになります。→私も日本語と、えいごの、勉強もしたいです。いつもいつも、ありがとう。→世界旅行をすると時に英語で話しかけると英語で返じがもらえるそうです ますたあしたいね。→私は英語がにがてなので英語時間が来るのがこわいです。→私は英語で住所や氏名を書けたことが、うれしいです。たくさん英語の勉強をしたいです。→私には英語ができないのでこまっていますが、どんなにしたらはやくじょうたつしますかね。→私は小学校は、やまがっこうで、えんぴつものうとも。ありませんでした。いまわとてもたのしいです。→私もとてもまずしいかていでしたので、いまはとても毎日がたのしいべんきょうできる→きれにかきたいけれどじかかけないので。くやいてす。→私も字がかけないですこまっています。→つくえ、えんぴつもきらいでした、いまふりかえると、こんなにもたのしいとおもいませんでした。


     学校の役割       その60

   71号に「人は学ぶ生きものです。それが人の自然です。」と書きました。
 一言で「学ぶ」と言っても、いろいろな「学ぶ」があって漠然としています。それで、大雑把ですが、二つに分けてみたいと思います。
 一つは実利的な価値を手に入れるための「学ぶ」です。もう一つの「学ぶ」は実利的な価値とは直接的に結びつかないものです。
 前者の「学ぶ」は学んだ結果が社会的、あるいは制度的価値に置き換えられるものです。資格や技術の習得のために学ぶことです。種々の受験勉強などもこの「学ぶ」の一つです。
 後者は「学ぶ」ことそれ自体に価値を置く「学ぶ」です。学んだ結果が学んだ者の内面に根付く性質の「学ぶ」です。これは日常生活の中で様々な経験を重ねながら、いろいろな知恵や知識を身につけていくことに似ています。沖縄では「じんぶんが付く」と言います。やがて、生活する上での価値観などを身につけるベースを作る「学ぶ」です。地域や共同体、家庭に備わった巧まざる教育力による「学ぶ」です。
 後者の「学ぶ」はこれとは性質の違うものです。能動的であると同時に「学ぶ」目的が社会的な価値や制度の枠から解き放たれたものです。
 二つの「学ぶ」の違いは、学ぶ主体から見れば、前者は「自分が作られていく」性質の「学ぶ」であり、後者は「自分を創っていく」性質の「学ぶ」であると言えます。おそらく、どちらも人間には必要な「学ぶ」なのでしょうが、学ぶことの本質は後者にあると考えています。「人は学ぶ生きものです。それが人の自然です。」の「学ぶ」はこの「学ぶ」です。
 ところで、「学ぶ」ことに「学校」という制度の枠をはめる時代が訪れます。近代国家の成立と軌を一にしています。国家に有用な「人材」の育成を教育の目標に掲げます。学ぶ目的が学ぶ主体の側に置かれません。この教育観が学校教育の柱になります。明治憲法下の軍国主義教育、敗戦後は有能な労働力育成のための管理主義教育となって現れます。破綻した軍国主義教育の反省の上にたってスタートした敗戦後の学校教育も高度経済成長以後、破綻するのですが、立て直すための手立てがなかなか見つけられないのが現状です。破綻の原因は学歴信仰の崩壊と高度情報化社会の出現です。国民の殆どが中流の生活が出来るようになり、大学に行かなくても等し並の生活が出来き、必要な知識や情報はいつでも手にはいるようになったことです。禁欲的な半日を学校で過ごす意味を見出しにくくなったのです。
 つまり、「自分を作られる」必要がない状況がおとずれているにもかかわらず、学校教育は今だその枠から出ることができずにいる状況なのです。「自分を創る」欲求に学校教育が応えられていないのです。
 この春、珊瑚舎の高等部に入学した生徒のじんぶん講座の「自己評価ノート」から抜粋します。中学校では不登校でした。
 『自分が「ひと」であるということの自覚、そしてその意味を考えたり、考えたところで意味なんか見つけられないかも知れないけど、ふだんだらーっと時間に流されて生きていては考える機会さえない事を思考し、話して、聞いて、それをこれからの人生や何かに組み込んでいくのかと思うと、海原に立ったような不安の中に、楽しさや灯りを見る様な気分になります。それは新しく手に入れた知識であり、経験、考えというものをムダにしたくないと感じさせます。』
 「学ぶ」ことは本来このような性質を持ったものです。日常生活では体験できない知的、芸術的体験から生れる新しい自分との出会いを可能にする営みです。生徒が自分を創るための手助けすることが学校の役割なのです。(ほ)