>学校をつくろう!

  第65号より

「ハーリー特集」

  「ハーリー大会」                      高等部1年 照屋 雄大

 6月8日、馬天の暑い日、そこに僕は居た。
 僕はこの時、複雑だった。一週間前まで一度も海に出て練習出来なかった。それで本番一週間前に初めて海で練習した。けどやる気が出なかった。本番まで2日前になった金曜日。この日もやる気になれなかったが、皆一生懸命に頑張ってるのを見て俺もカッコイイとこ見せなきゃと思い始めてやる気を出したら、皆も自分を認めてくれて、さらにやる気が出た。不思議な気分だ。
 そして次の日、明日は本番だという日。初めて波丸メンバーでやったけどぜんぜんだめだった。ちょっとショックだった。しかも同じ珊瑚舎の風丸がアホみたいに速かった。悔しかった。こんなんで波丸いけるのか?と思った。
 そして本番、正直行けないと思った。でも皆はやる気マンマンだった。俺はそれを見て、自分もとことんやってやるぜ!と思った。そしてメンバーで円陣組んでこの時思った。チームは一つになった。始まった。僕は無我夢中にこいだ!1!2!3!限界を感じなかった。目の前には海だけだった!そしてゴールした。一番になった。皆は応えてくれた。僕も応えた。この瞬間、俺たちはスペシャルワンになった。気持ちよかった。波丸は波になった。
 同じ珊瑚舎の風丸は21チーム中2位になっていた。自分たちは7位。でもタイムは13秒も縮んだから満足している。けど来年は一番になってやらあ!来年は今年よりも早くなってやります。今年よりも頑張ります。今年よりも本当の意味で一番に・・・。

   「日焼けの作り方」                    高等部2年 藤元 那美

 6月8日、ついにきた馬天ハーリーの本番。 正直、自分には今まで無かったジャンルの出来事だし驚きとショックで、本番の日をあやふやにしか覚えてません。
 自分の居る状況が半信半疑状態で、ふわふわと夢の中にいるようでボーッとしてました。でも開会式の時に支給されたタオルを頭にギュッと結び、仲間と円陣を組み、やっと闘志が燃えました。自分たちの番が来て、スタート地点にスタンバイ。 よーい、カン!「それえええ、うおおおお・・・はい、はい、はい」と“心の中で”叫び、漕ぎ始めます。 正直、漕ぐことに力を回すのに精一杯な感じで声まで出る余裕はありませんでした。漕ぐ事と前の人の櫂に合わせるのに意識を集中しつつ、風を切り気持ちよくサ―――ッと船が進むのが全身に伝わりました。折り返し地点から、腕と腰が悲鳴を上げて、櫂を持つ手が下がってきてしまいました。3回程、後ろの人の櫂に当たっちゃいました。櫂が重くて力だけでは支えきれなくなってきて、心の中の「は゛い゛、は゛い゛、は゛い゛(濁音)」が思わず口から出たんですが、自分の声と周りの気合に引っ張られて腕の力が復活!!!!ゴールまで持ちこたえました。 本気で漕ぎました。半分は意識が朦朧としつつも、漕ぎきりました。ゴール地点から帰ってきて、船から降りた時、やり遂げた!と誇らしかったです。 決勝に出ることは出来ませんでしたけど、凄く残念だけど、いい。頑張った。皆と漕いだ。よかった。 去年は車酔いによる遠出が苦手で、皆とハーリーやるどころかそもそも馬天に行くことすら出来ませんでしたけど。今年は参加できて、皆と漕ぐことが出来てよかった。自分の中で何かが変わったというか自信がつきました。大きなものを残してくれたけど、あまりにもあっという間に終わってしまった。 来年までサバニは漕げないのかと、櫂を握れないのかと、ホームシック?気味です。

   舵取りの独り言 「10本の櫂と12人の一心」      ハーリー舵取り 宮城竹茂

 馬天ハーリー職域の部、2007年3位、2008年準優勝。あっぱれである。 たくましい島の男たちを対戦相手に、珊瑚舎スコーレのか細い選手たちの腕が2年連続決勝進出という快挙を成し遂げたのだから堪らなく嬉しい。今日の酒は旨い。
 「竹ちゃん、ハーリーの船はいつ下りますかね。」エントモのその一言からはじまる、生徒の口々からハーリーという言葉が聞こえてくる。まずは音楽室に椅子を並べて、櫂の代わりにホウキを持つ昼休みのハーリー練習、サバニと櫂と皆の心が一つになっていくはじめの一歩だ。
 山がんまりを早めに切り上げて馬天港に行くと、船の揚げ下げや、海に慣れてない生徒にいつも気を使ってくれる珊瑚舎の味方、ハーリー好きなオッちゃんがいる。漁業組合長の山之端さんだ。いつの間にか生徒の間では山ちゃんと呼ばれているらしい。その山ちゃんが見守る中、実践で船を漕ぐ練習の始まりだ。毎回恐々と船に乗り込む初心者が登場するが、彼や、彼女たちが今年の勝敗を決める重要人物である。そして、たくましくなるまでのシナリオを創ってくれる主役たちだ。鉦の音で船を漕ぎ出す。バラバラな櫂が船を左右に揺らし、無駄な体力を使っていることを知らず初めてのサバニを漕ぐ体験をする。俺だけならいいだろう、私だけならいいや、休んじゃうか、櫂をちょこっとだけ入れよう、そんなことが通用しない、12人が一体となる辛さと大切さを教えてくれるサバニに乗っていることを、今年の主役たちは知らずにいた。
 「シュウ、大丈夫か。」返事がない。もう一度聞きなおすと疲れ果てた顔をしながら「はい」と弱々しい返事が返ってくる。これは無理かなと、正直その時は思ってしまった。
 雨の日、風の強い日、休むことなく練習は続けられた。サワチやアイが日に日に上手くなる一方、ユウタとシュウは後ろの舵取りのオッちゃんから怒鳴られる、ナミも何回怒鳴られただろうか、しかし、不安そうなタミオの鉦の音に櫂は揃い始め、確かに船は進んでいた。
 サトシが海に飛び込んだ、シュンタが飛び込んだ、シュウもユウタも救命胴衣を着て飛び込む。毎年のパターンだが今年は何時もと何か違うような気がした。それは本番前日の練習で誰一人飛び込まなかったことだ。これはひょっとして?舵取りのオッちゃんは密かに期待していた。  リボンクラブと有志の寄贈により、真新しい珊瑚舎のテントが張られた。風は南西からの風、舵取りのオッちゃんはターンをイメージする。いよいよ本番当日だ。
 スタートのシグナルが鳴る。波丸が飛び出た。シュウが漕ぐ、ユウタが漕ぐ、ナミが、アイが、タミオの鉦が何時もより鳴り響く、いつものスピードではない、間違いなく、確かに10本の櫂が大きな一枚の板となり、12人の心が一つになった瞬間を見た。もちろん風丸もしかり。顔に受ける水しぶきが気持ち良い、皆は凄い、最高だ。一試合終わる度に「素晴らしい、素晴らしい、良くがんばった」と、珊瑚舎のメンバー一人ひとりにテンションの高い固い握手で迎えてくれた組合長の山ちゃんがそれを物語ってくれた。

     学校の役割        その54

 山椒魚は岩屋を棲家にしていた。体が発育し、気づいたときにはその岩屋から出られなくなってしまう。山椒魚は孤独と絶望の中で悲嘆にくれていた。悲嘆にくれているものを、いつまでもその状態に置いとくのはよしわるしである。山椒魚はよくない性質を帯びて来る。たまたま岩屋に紛れ込んだかえるを閉じ込めてしまう。山椒魚にとって相手を自分と同じ状態に置くことは痛快なことであった。井伏鱒二の「山椒魚」である。
 一匹のかえるの登場は山椒魚にとって救いであった。孤独と絶望の深淵はとりあえず目の前から消えた。自分の弱みを見せないよう両者は互いに意地を張り、自分を主張しあう。しかし、3年目の夏、お互は黙り込んでしまい、相手に自分の嘆息が聞こえないように注意していた。ところが、かえるは図らずも相手に聞こえるような嘆息を漏らしてしまう。それをきっかけに両者の間に友情のような感情が芽生えていたことがわかる。しかし、この感情は作品の発表から60年後、忽然として消えてしまう。作者がその部分を作品から削除してしまったからだ。両者は未だに互いに意地を張り、自分を主張し続けているのである。この両者、いったいどうなるのか、削除された部分に代わる結末を考えたくなるが、名案はなかなか思い浮かばない。
 ところで、悲嘆にくれていた山椒魚は、自分をブリキの切屑のように感じ、「あぁ寒いほど一人ぼっちだ!」とすすり泣く。この疎外感と孤独感と絶望感、誰もがこの壁を前に立ち往生し、あるいはうずくまる。やがてよくない性質を帯びてくることもある。
 秋葉原の無差別殺傷事件の犯人と山椒魚はこのあたりまで同じ、そういう僕もこのあたりまで同じ。 しかし、彼は人の命を奪い、人を傷つけた。僕はそんなことはしなかったし、これからもしないと思う。そこが違う。なぜなのか。
 誰もが、抜け出すことの出来ない岩屋の中にいると言ったら言い過ぎか。しかし、気がついた時には自分の意思とは関係なく、山椒魚に閉じ込められてしまったかえると同じように、何者かによって岩屋に閉じ込められているのではないか。時にわが身を嘆き、あれこれ思案しながら、岩屋の中で何はともあれ、やっていくのではないか。
 あれこれやってゆく上で同行者の存在はとても重要である。場をともにする他者の存在である。変容は他者性との対話から生まれる。例えば、かえるの同行者は山椒魚である。作者が結末の部分を削除する前の「山椒魚」ではそれが読み取れる。山椒魚が「お前は今、どういうことを考えているようなのだろうか?」とたずねると、自分を岩屋に閉じ込めたのは山椒魚であるにも関わらず、かえるは「今でも別にお前のことをおこってはいないんだ」と答えて作品は終わる。
 モノローグの荒野が広がっている。僕はあの事件ほどその存在をはっきりと浮かび上がらせたものはないと思っている。彼はそのただ中で生きていた。
 家庭環境や受験競争、格差社会、派遣社員の問題など事件の背景には様々な問題が潜んでいるといわれている。しかし、あのような凶悪かつ凄惨な事件を起こす引き金となったものは、僕の言い方で恐縮だが、公開モノローグ、つまり書込みサイトのことだが、そこに潜む負の機能であると考えている。他者性をいつでも好きな時に排除できる半面、その書き込みを受け取るのは自分自身なのである。人間の変容を可能にする対話はそこに生まれない。彼の屈託した自尊心と世の中に対する憎悪はそこで増幅された。
 指先で簡単に他者性を排除した後、あるいは排除された後、残るのは行き場のない無機質な言葉の荒野である。彼の憎悪はその荒野にそびえる城のような秋葉原に向かった。(ほ)