ふくぎのふぁー(講師、スタッフのコーナーです)
珊瑚舎について思うこと 紅型講座講師 中鉢 さわ
一昨年から工芸実習(紅型)という講座をやらせてもらっていますが、珊瑚舎という学校は、なんだか生きものみたいだなと感じます。かっちり形が固まっているのではなくて細胞が一個一個、動いているような。 細胞というのは、たぶん、珊瑚舎の一つ一つの授業なのだと思いますが。お互い探りあって、どこかに引っかかって少しずつ何かが蓄積していくような そんな感じを受けました。一度色々と受講できたらいいなと本当に思います。
私は工芸実習の講座を通して、珊瑚舎の生徒の皆と関わらせてもらっています。珊瑚舎の授業の時間割のなかに、あえて工芸実習を入れてある…沖縄という場所を学ぶときに、工芸は、はずさなかった。このようなカリキュラムを組んだ先生方の想いに、まずは応えられているのかと、もどかしいような気持ちになるときがあります。たぶん、そんな気持ちになるのは講座名が(型染め実習)ではなく(工芸・紅型)だという事かもしれません。
私は、城間びんがた工房で仕事をさせてもらうなかで、紅型という染め物は、沖縄の土地が生んだんだ、と、当たり前のようなことを初めて実感しました。場所が持つ光があり、時代があり、それから何よりも、人、を強く感じるようになりました。紅型の布の背景には、数え切れないほどの人の顔が見える。同じ行程をなぞることで、 不思議なことだけど、時代も超えて、その布を作った人のテンションや想いまで共感することができる。講座名に、紅型、と付くことは 一気に時代の厚みが、どっと分厚くなってしまうように私は感じます。ただ型染めの技術を使って作品をつくる…、やってることは同じようで何か違うような気がしてしまうのは、どうしてだろう。 時代も飛び越えて、布や型紙を通してその時代の人の心と対話する不思議さや楽しさ。
生徒が何か作ろうとするとき、少しでも時間の分厚さの感覚を楽しみながら、自分の作品との時間を楽しんでいけたらいいなと思います。沖縄課程の講座のいくつか…例えば芸能実習の舞踊とかと関わりを持たせて何かできれば、また違った視点で紅型が見えてくるのかな、と思ったりします。
走り回るぞ 高認世界史担当 松田 浩史
高認世界史を担当しています、松田浩史です。僕はいま琉球大学の大学院で、社会科の教師になるために毎日パタパタと足掻いています。珊瑚舎では、世界史担当なのですが、実は世界史があまり得意ではありません。だから僕自身、本当に世界史を勉強し直して、毎回の授業を考えています。こんな未熟者の僕ですが、この世界史の授業で取り組みたいことがあります。第一に、この授業をお互いがリラックスできて、なんでも言い合える授業にすることです。授業は生徒たちと教師という複数のメンバーで展開されます。だから、話し合いによって、自分と同じ考えや違う意見、疑問などを共有できます。相手の意見を大事にして、自分の意見も大事にしてもらって、みんなで「ああだ、こうだ」と言い合って学ぶことで、「発見したり、もっと深く分かったり」することができると思います。だから僕は教室を、みんなが言いたいことを安心して言える、そんな場にしたいと思っています。
その2は一方的ではなく、多面的で豊かな歴史認識を生徒と一緒につくっていくことです。たとえば、大航海時代に初めて世界を一周したとされるマゼラン一行については、どの教科書にも必ず記載されています。しかし、そんな偉業を成し遂げた“有名人・マゼラン”は、当時のアジア人からみれば、“侵略者”以外の何者でもありません。その証拠に、フィリピンではマゼランを倒したラプラプという人物が、銅像や硬貨のデザインになっていて、“英雄”としていまも称えられています。このように歴史の捉え方は多種多様です。だから、歴史のいろいろな見方をみんなで探してみて、その中から自分の歴史観を作っていける、そんな授業を一緒につくりたいと思います。
高認世界史を受けている生徒はみんな、強い個性や鋭い感性の持ち主です。でも授業は、和気あいあいと(たまにゆる過ぎる?)、よい雰囲気の中で勉強できていると思っています。
お互いの意見を大事にして、みんなで豊かな世界史の授業を作っていきましょう。そのための材料探しや準備に毎日、走り回ろうと思います。よろしくお願いします。
学校の役割 その53
柿本人麻呂の短歌、縦書きにします。
妹 立 発 葛 春
念 座 雲 山 楊
「春楊(はるやなぎ) 葛山(かつらぎやま)に発(た)つ雲の
立ちても座(い)ても 妹(いも)をしぞ念(おも)ふ」
と読むそうです。歌意は「春の楊の芽吹きが目に映える葛城山、その葛城山の頂上に湧き立つ雲のように、 私は立っても座っても あなたのことばかりを思っています」ということですが、上の句は枕詞と序詞ですから、「オレは四六時中オマエのことばかり思っているぜ」でもいいし、「僕は寝ても覚めてもあなたのことばかり考えています」でもOKです。
たまたま見たテレビでこの万葉仮名で表記された短歌を知りました。同じ万葉仮名で表記された短歌でも、助辞(助詞や助動詞、用言の活用語尾など)が表記されているものもあります。新体歌と言います。この人麻呂の短歌は旧体歌といって漢字による助辞の表記が考案される以前のものです。万葉仮名の助辞の表記は当然のことと思っていました。不勉強でした。文字を持たなかった人々が漢字を知り、やがて漢字の持つ意味を捨てて、音だけを表す音表記を手に入れるまで、遥か彼方に去って行ってしまった時間が日本語にはあった。人麻呂は助辞の音表記に大きな功績があったのではないかと言われています。
珊瑚舎の文章講座には「定型の力」という単元があります。あらかじめ決められた枠の中から生まれる言語表現を楽しむための時間です。短歌や俳句も取り上げますが、連句をもとに作った、八句を二句ずつ起承転結で構成する「八連句」(作品をHPで紹介しています)を作ったりします。
この人麻呂の短歌、「妹念」を「妹を念ふ」ではなく「妹をしぞ念ふ」は七音で読むという約束があるので「し」と「ぞ」という強意の助詞を想像する力が生まれるわけです。定型の力を逆方向で借りるわけです。早速教材にすることにしました。短歌ではなく「漢歌」と名づけました。「漢歌をよむ」という授業です。
それぞれが自分の作った漢歌を板書します。全員が助辞を補って五 七 五 七 七の形にします。
タークミの漢歌、縦書きです。
明 今 雲 陸 奮
夏 過 湧 風 立
有
本人は「奮い立つ 陸に風あり 雲ぞ湧く 今をぞ過ごし 明ける夏こそ」
と読み、ユーキは四句目まで同じ、五句目を「明けんとする夏」と読みました。タークミ、「そっちの方がいいかな」、ユーキも「そっちの方がいいかな」。面白いです。
シュンタの漢歌、
思 君 孤 誰 夜
出 顔 時 居 街
ヒラクはこう読みました。
「夜街に 誰か居ないか 孤の時に 君の顔すら 思い出せずに」
ユウキはこう読みました。
「夜の街 誰も居らずして 孤の時 君の顔をぞ 思い出さるる」
どう読むか、助詞一つにそれぞれこだわりがあって楽しいのですが、五句目を打消しに読んだヒラクの解釈がみんなの注目を集めました。孤独感が強く表現されていてかっこいいというのです。作ったシュンタ本人はみんなの意見を聞きながら目をキョロキョロ。結局、打消しに読んだ方が漢歌としてはGOODということになりました。(ほ)
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