授業をつくろう
専門部英会話講師 山本藍
今年度の授業も、残すところ2週間(1/31現在)。英会話は火・水・木の週3日あるので、授業はあと6回だ。まさにラストスパートをかけるならこの時しかないという今、生徒たちもよい具合にアブラがノッている。
英会話の授業は朝一番の9時から。まだ完全に起きていない頭で、まずは「昨日の出来事」について報告しあうのが日課だ。もちろん、英語で。
スコーレの専門部生は年齢もさまざま、学歴も、人生経験も人それぞれだし、年度によっては英語が得意な留学経験者もいれば、中学、高校と英語の授業は寝ていたとおぼしき面々もいる。それでも、全員が毎朝英語で話をする。年度初日は英語での自己紹介がそれに代わるが、翌日からは早速この「おしゃべり」だ。
この方法を取るのには、いくつか理由がある。まずは、英会話は「話す・聴く」ことでしか身につけられない、という理由。話し、聴き、考えるなかで文法や単語を自然に、または必要を感じて身につけていく。知識の習得も不可避だ。単語も文法も、覚え、理解しなくては言葉が出てこない。けれど、それを知識としてだけではなく、五感を使って自分の血肉としてほしい。授業は、それを体験する場にしたい。
もうひとつの理由は、生徒たちの生活や考え、興味などを知るよい機会になるということがある。生徒同士の仲の良さや、わたしとの信頼関係で授業の雰囲気はずいぶんと変わる。週3回の授業、一人ひとりの生徒をよく知ろうと思えば時間が足りない。朝のこの「おしゃべり」で、わたしはヒラクがバイトを始めたことを知り、「それで最近疲れているんだな」と思ってみたり、エミナが絵を描くことが好きだと知って絵を描く授業を取り入れてみたりする。
そして、学んだことを実際に使って手ごたえが感じられるのも、この時間だ。昨日覚えた単語を使ってみる。あ、通じた。なるほどね、こうやって使えばいいのか。などという経験を生徒たちは1年の間にたくさん積み重ねているはずだ。わたしにも伝わる。やる気があるか、授業で出てきた文法をどのくらい理解できているか、応用する力がついてきたか・・・。
その朝のおしゃべりが、冬休みのあと変わった。これまで一言しゃべってはわたしの質問を待っていたシュンスケが、わたしの質問を待たずに自分の話をするようになった。毎回毎回注意してもやっぱり同じ文法ミスをしていたラクが、注意深く言葉を選ぶようになった。ヒラクは英語で考えて話しているのが目に見える。前期は「話したいことがない」なんて言っていたが、今では5分、10分と話し続ける。
おしゃべりが意欲的になると、その後の課題にも俄然やる気の態度だ。冬休みが明けてわたしが選んだ課題は、環境問題。難しい単語、聞き慣れない単語が続出するが、それが不思議と頭に入っている。長文を見せられてもパニックになる様子はなく、退屈そうにもせず、わたしの質問にいろいろな発想で読み解きながら答える。
「授業をつくる」に近づいているな。と、わたしは一人ほくそ笑む。というのも、前期、わたしはこのことで生徒たちに物申したことがあった。「授業をつくる気はあるの?そんな受け身の授業をするためにスコーレに通っているの?」と。80分の授業をつぶして話をしたが、そのとき、その言葉が本当に胸に届いた生徒は1人か2人だったように思う。
珊瑚舎スコーレは、「授業をつくろう、学校をつくろう」と呼びかけている。わたしはそれに共感してここにいる。講師、生徒、それぞれにこの呼びかけの受け取り方があるだろう。わたしは、これを「楽しもう」と読み解く。授業を。学校を。積極的に。意欲的に。それが、「つくる」ことだと思う。講師であるわたしは、材料を携えて教室に足を運ぶ。頭の中には、楽しい妄想が膨らんでいる。でも、その材料を使って楽しむのは、つまり「楽しい」と実際に思えるのは、それぞれの“自分”にしかできない。楽しむというのは、そんなに楽なことではない。一生懸命にやらないと本当の楽しみは得られないし、ときには陰の努力ってやつも必要だ。他人への働きかけも無視できない。スタミナも。前期、生徒たちは手軽に楽しむことはしても、一生懸命楽しむ様子はなかった。やりたいとこ取りだ。そして、発表会の前、準備を一生懸命楽しむ姿はなく「最終的にまぁまぁのセンで形になればいいや」という態度だったのが目に余った。それでは、授業はつくれない。
授業をつくる一環として、毎年「授業検討会」というのがある。生徒たちが会議で各授業について検討し、それを各講師と話し合うことで授業を良くしようという試みだ。また、スコーレでは成績表がない代わりに「自己評価ノート」をつける。自分で自分の評価をするわけだ。どちらも、とても意義のある取り組みだ。でも、とわたしは思う。でも、その「システム」に甘んじてはいないだろうか?――授業検討会を行ったことで授業をつくっている気になってはいないだろうか?自己評価ノートに「遅刻が多かった」と書くことで、反省が形になったと思っていないだろうか?
一生懸命楽しむ授業、残す2週間はそれをめいっぱい体験してほしい。
演劇の授業のこと
演劇講座講師 上田真弓
足かけ4年、演劇の授業を担当しています。
あらためて、文章に書こうと思うと、うんうんうなってしまいました。手探り試行錯誤しながら授業をしています。
ひさしぶりに思い起こしてみたら、一番最初の年に考えていたことや、やったことが幻のようです。そして、毎年の顔ぶれのちがい。空気ががらりと変わります。「踏襲」できることが少ないです。でも、あのときのこれはすてきだった、というシーンがいろいろ浮かんできて、また、困っています。書ききれない。演劇のイメージが、台本を覚えたり、すらすらとせりふを言ったり、お腹のそこから朗々としゃべることだったりするならば、そういうことはほとんどやっていない。役者を目指しているわけではない人のための演劇。劇団の練習でもないし、養成所でもない。いわゆる技術の向上ではない演劇の力。
表現するための身体と気持ち。
声を自由に出したり、お腹でたっぷり呼吸したり、自分の身体を知るためにしっかりあちこちのばしたり力を抜いたり。そういう基本的な身体のことをします。目の前にあることから発想・発見して表現していく。イメージを伝えあって世界を作っていく。小さなせりふや状況設定からシーンを考えて作っていく。いろいろな表現を体験します。
最近やったこと。まず、みんないます。みんなは、「自分で(勝手に)動く・止まる・誰かの真似をする」という、3つのどれかをします。集団が、不思議な呼吸で動きます。それをビデオで撮影しました。面白いのは、おおよそその場に意志を持って参加していない(!)生徒の動きすらもそのシーン全体の中に居場所を得ていたことでした。ときに、いっそ主役のたたずまいで。ただそこにいるだけで物語がある。それぞれ、グループに分かれてその動きにストーリーをつけていきました。タイトルを決めたり、音楽をつけたり。解釈することで、広がる世界が劇的に変化する。見えるものが変わる。刺激的です。生徒たちはそれぞれにまったく違うものをつかまえて表現していました。すごくおもしろかったなぁ。
演劇というジャンルのおもしろさは、認識のずれや、誤解、生徒それぞれの立ち位置の違いが、ときに劇的に面白いものを生み出すことです。振れ幅、を大きくしてくれる。振れ幅は大きい方がドラマティックです。ときに。年に二回の学習発表会で、ほかの授業の発表をする生徒たちを見て、衝撃を受けることがたびたび。そんな表現が出来たのか! あなたの向こうにそんな物語が! などと。学校自体が演劇的なのだ、珊瑚舎は。そういうときに、実は、演劇の講師としてはほんの少しくやしがったりします。これは内緒のことです。
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