>学校をつくろう!

  第61号より
   ふく木のふぁー 「真苔といいます」
                                   美術講座担当 玉城 真
 真吾じゃないです。まこけです。ほんとは真(まこと)です。謎かけみたいですが名前です。高等部の美術講座を担当しています。学生時代、苔を使った作品をつくっていました。ある日先輩が「真(まこと)の苔だから真苔(まこけ)ね」と言われたのがはじめです。それ以来、なんか気が抜けたような響きが好きで、自分でも使うようになりました。
 高等部のみんなに美術を教えていますが、正直にいうと私自身、美術をわかっていません。というか自分で複雑にしてしまったのかもしれません。絵や彫刻が美術と思って大学に入ったのですが、大学の講義で、ボクシンググローブに絵の具を付け、壁にむかって打ち込んで描いたり、洗濯ばさみを身体中につけて町を練り歩くといった、わけのわからないものを作品と紹介され、いままで知っていた美術と全然違っていて、どこから美術なのか、さっぱりわからなくなりました。なんとかわかろうと、作家の真似をして作品をつくったり、いろいろ本を読んで考えたりしましたが一向にわかりません。悶々としたまま、卒業する為の作品制作の時期になり、どうしていいかわからずいろいろ考えました。幼い頃の思い出に祖父の盆栽にこっそり苔を植えて褒められたことがあり、大人になって褒められる機会が全然なかったので、もう一度、苔で何かして褒められる作品をつくることにしました。鉢の上に木を植えず、苔だけを敷詰めサッカーコートの盆栽をつくったり、近所の苔を取ってきて、それと同じ形の苔の模型をつくり、緑色に発光する液を塗って光らせ、取ってきた苔の代わりにその模型のヒカルコケを置いて、さりげなく苔をアピールしたりしました。  あっちこっち迷いながら、作品をつくっていく中で「もしかして美術ってこうなのかな」と思う部分も出てきました。それは「自分が美術だと思えば、それが美術になる可能性がある」ことです。ただし、誰もやっていないことをすれば良いわけでもなく、オンリーワンだからといって、それがナンバーワンだと言い切れない、そういう厳しい部分も美術にはあります。本当に今でもわからないことだらけですが、わからなくてもできてしまうところに、美術の良さがあって、そこに惹かれ、一生懸命になってしまったと思います。 今でも発展途上の私が、珊瑚者の生徒と美術の授業をしているので、生徒に教えるというよりも、授業の内容から進め方まで、いっしょに模索しながら進むので、とても生徒たちに助けてもらっています。
 授業内でおしゃべりに夢中になっていると生徒同士で声かけあったり、誰からというわけでなくそういう声が出ます。授業を受ける人数も10人前後なので、説明だけではうまく伝わらないような表現のニュアンスも、互いに話しあえて会話の中からその人にあったニュアンスが出てくる為、しやすいです。
 上で述べた以上に、美術の授業にすごくあっていると感じるのが、「生徒が学校をつくる」という考え方を意識した生徒自身の授業の捉え方です。担当したての頃は、経験不足や自信のなさから、見栄えの良い授業というか体裁の良いことばかり気を取られていて、形式的な雰囲気で授業をしていました。ある授業の初め、生徒たちから、「授業についてみんなで話し合ったんだけど、もう少し真苔とコミュニケーションをとってお互いを良く知りたい。」と言われました。そのとき初めて、珊瑚舎の「生徒が学校をつくる」という考え方があるとわかりました。授業づくりも学校づくりの一環だし、そのことを生徒自身も良く理解していて、わからなかったのが自分だけで少々恥ずかしい思いもありましたが、今の私にとてもあっていると思いました。私が作品づくりでやってきた進め方と似ているし、ワークショップをやってきた私には、一緒に作っていくことの方が、良い授業を生徒といっしょにできると思ったのです。
 今でも経験不足の為、毎回授業で何をやるか不安になったり、その引き出しの少なさに自己嫌悪になったりしますが、そういうときこそ、生徒に話をぶつけたり相談したりしながら、良い方向をお互いに探っていくようにしています。美術講座を受け持って約一年が経ちましたが、生徒といっしょに授業をしていると、そのつど美術についての考え方や感じ方が変わったりします。珊瑚舎スコーレの「生徒が学校をつくる」は、作品をつくるのと同じように、その都度ゼロから何かを起こすことに似ています。良い意味で自分の意図していないことが起きたり、それが新しいことを生み出すきっかけになります。また「生徒が学校をつくる」には他者の協力が必要です。その根本である他者とのコミュニケーションは、個人的な内面の追求にもつながり、また新たな美術の捉え方にもつながっていく。
 最後に今後のことですが、私以上に生徒が、美術をもっと知りたい、気持ちはあるけど道具が無かったなど、十分に追求する条件や環境を準備できなく、うまく処理できないことばかりが多々あります。色々不憫で申し訳ないですが、そういう物理的な条件をプラスに変えて、生徒と一緒に授業をつくっていきたいと思っています。

   学校の役割      その50

 全国学力テストの結果が発表されました。沖縄県は47都道府県中、小学校、中学校の全科目で最下位、46位の県との差も大きく開いている、いわば“ダントツの最下位”だったそうです。 沖縄県は低学力を克服するため、学力向上対策に20年以上熱心に取り組んできました。関係者はひそかに期待していたそうです。結果に大きなショックを受けた教育庁は「検証改善委員会」を発足させ、新たな学力向上対策を打ち出す準備をしています。
 沖縄県の教員採用試験の2次試験に小論文があります。教員採用試験対策のための予備校があり、主宰している方が珊瑚舎の支援者という関係で、そこの小論文対策講座の講師を引受けています。もう何年にもなります。
受講者は現役の学生もいますが、多くは“補充”や“臨時”といって産休や休職教員などの穴埋めをする立場の臨時(補充)教員です。正式採用されておらず毎年採用試験を受験している方々です。仕事の内容は正式採用された教員と変わりません。実際に授業をし、クラス担任をし、クラブ活動の顧問をしている方もいます。中には補充を10年以上している方もいます。難関である正式採用の順番待ちをしているようなところもあります。いずれにしろ沖縄県の現役の教員と言っていい方たちです。僕は毎年大勢の補充の方々の教育に関する小論文とお付き合いしていることになります。
全国学力テストやその結果についてここで言うつもりはありません。また、沖縄県に限って問題を指摘するつもりもありません。小論文に対するいくつかの感想のうちひとつだけを取り上げ、そこから見えてくる学校教育の課題などについて触れてみたいと思います。
 そのひとつとは、教員から生徒への働きかけを述べる場合に使役形が多用されていることです。「・・・させる。」という形です。教員と生徒の関係の多くが使役形で現われるのは、これは何も沖縄県に限ったことではないでしょうが、働きかける側と働きかけられる側が明確に区分されていて、働きかけられる側は働きかける側の意図の通りに動くことを前提とする意識の現われです。つまり、児童・生徒は教員の指示どおりに動くものという前提にたった意識から生まれる表現です。この使役形は直接児童・生徒に向けられる時はさまざまな形の命令形の文体になります。
 学校に入学した小学校1年生の時から、この使役形、命令形の文脈の中で時間を過ごしていれば、自主的、自立的な態度を養うことは大変難しい。課題をこなすことはできますが、課題に自ら取り組むことは難しい。当然、知識を応用する力もつきません。学習意欲を育むことも大変難しいことになります。
 小論文は必ず添削をすることにしていますが、今僕が書いたことがそのまま、今度は逆に受講生の小論文を書く態度に現われているのです。安定した就職がかかっていますから、もちろん意欲はあります。しかし、知識を応用することは大変難しいようです。
   僕と受講生は使役形、命令形の文脈の中にいるという、おそらく無意識の前提があるのだと思います。僕は正解を常に提示し、その正解を受け取るために講座に参加している嫌いがあります。僕が使った語句や文章をそのまま使ってしまうので、紋切り型でしかも断定的表現がとても目立ちます。結果として、思考を重ねた文体ではなく、決意表明文のような文体になり、そこからなかなか抜け出せません。
教育委員会がどのような意図で小論文を課し、どのような基準で評価しているのか疑問を感じることがあります。しかし、無責任なことは、受講生に対しても、珊瑚舎に対してもできません。珊瑚舎の文章講座と同じ考えで小論文講座を引き受けています。
 受講生は毎年に増えていて、今年は100名を越えています。珊瑚舎の授業を県内の若い教員の方に体験していただく機会だと思っています。(ほ)