2007年6月23日 「慰霊の日」特別授業
沖縄では教科書から「集団自決(強制集団死)」への軍関与が削除された教科書検定問題が大きな問題になっています。
今年の6月23日は座間味村の集団自決の事実を証言者として語り継いでいらっしゃる與儀九英氏から、当時の様子を昼間の生徒、学生、夜間中学の生徒達に話していただきました。今号と次号の2回にわたり、その話を掲載いたします。
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生徒さんの中には、私より以上に戦争の苦しみを体験なさった方がいらっしゃるんじゃないかと思うんです。私は昭和4年の生まれです。ちょうど大東亜戦争、私は昔の言葉を使います。いろんな勇ましい言葉で私どもはだまされましたから、あの当時の言葉を消してしまうと、だまされた事実がなくなっていくわけです。それで私は集団自決という言葉も使うし、大東亜戦争という言葉も使います。と同時に玉砕とか自決とか、勇ましい、当時の大本営が作った言葉を使いますから、あしからずよろしくお願いします。
今でも美しい国とかいろいろ権力者は、庶民をだますためにきれいな言葉を私どもに投げかけておりますが、戦前こそですね、玉砕とか負けたとは言わないで転進(てんしん)と言ったんです。後退することを転進って言うんです。
いろんな言葉がありますけれども、そういう言葉にだまされて米軍が上陸した時には、ちょうど今から62年前ですね。3月26日に、慶良間(ケラマ)というこっちから西の方に、久米島との間に点々とした小さな島が浮かんでいますが、そこで米軍の上陸を見て島の人達は絶望的な気持ちになりました。それと鬼畜米英、鬼畜というのは鬼よりももっと恐い米英という、そういうふうな言葉で私どもは頭の中はすり込まれていましたので、捕虜になったらブルトーザーで戦車でひき殺される、そういうふうなイメージしかありませんでしたので、早く死のうや、アメリカーに捕まるよりは、早く死のうやということで、特に小さい子ども達が親にせがんで自決を急ぎました。
実はですね、私の島は慶留間(ゲルマ)という慶良間の一番久米島に近い小さな島ですが、この島は米軍が最初に上陸した島なんです。3月26日の約一ヶ月半ぐらい前ですね、2月8日、今でも忘れないです。昭和20年の2月8日。なんで8日というと、8日というのは、昭和16年の12月8日に日本は米英に対する宣戦布告をしました。要するに、アメリカ、イギリスに対して戦いを挑んだわけです。その8日という日を記念して、毎月8日は、ああいった小さな島でも、戦意高揚と言いまして、日本は絶対負けないよ、勝つんだと、勝利の日まで、という言葉でみんなの心を盛り立てるために、大勝(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)という記念日を設けました。毎月8日は、職場とか、あるいは学校、あるいは地域で、大勝奉戴日という行事がありまして、一億国民、戦争に向けての心構えをする運動に決められた日でした。その2月8日、ちょうど、米軍が慶良間に上陸する一ヶ月半位前ですね、ゲルマの島の管轄は隣の阿嘉島(アカジマ)という所、そこに本部があって、そこの隊長、野田さんという陸軍少佐、この人が、特攻艇のボートから、特攻艇というのはですね、爆雷をつんで敵の艦船に体当たりするボートがありまして、これに乗ってゲルマまで来ました。ゲルマというのは小さな島ですから、学校は分教場といってました。これは「24の瞳」なんかでみなさん、お話を聞くと思うんですが、独立した学校じゃなくて、分というのは分かれる、教というのは教育の教、場は運動場の場。分教場の校庭に全部落民集められまして、この野田隊長が、敵の上陸は必至だ、アメリカ軍の上陸はもう目の前だ。必ず来るんだと。敵上陸のあかつきは全員玉砕あるのみ、と勇ましい言葉で訓示しました。私はこの言葉は絶対に忘れない。
2ヶ月前に出した本の最初にもこの言葉を書いております。「全員玉砕あるのみ」。で、1ヶ月半くらい後に、米軍が上陸しまして、最初のうちは日本が負けるという、そういう思想は持っていませんので、日本の国は神州不敗伝、絶対に負けることはないと、そういうふうな思想で頭の中はすり込まれていますので、米軍の上陸を実際に見ても信じられなかったんですよ。それと、これは戦の一つの常識ですが、自分の軍隊が上陸すると上からの空襲も、それから軍艦からの砲撃も一切やめるわけです。相打ち、自分たちの仲間を殺すことになるから。米軍もあの小さな島に上陸しましたら、上からの爆弾投下とか或いは機銃掃射、それから艦砲射撃、こういうのぴたっと止んだんです。そうすると我々島人(シマンチュ)は、日本の軍艦が、或いは日本の飛行機が、アメリカーを打ち負かすために応援に来たんだと勘違いしまして、壕から飛び出してあぜ道に出て万歳、万歳したんです。それくらい日本の教育は徹底していたという証拠なんですよ。日本が負けるはずはない、と。
ところが、やがて米軍がさっと引いたんですよね。艦砲射撃、軍艦の砲撃も、それから空からの爆弾投下、それから機銃掃射、一段と激しくなってボカボカッと弾の雨が降ってきました。あーこれはアメリカの軍艦だったんだ、日本は負けているんだというふうに初めて気づいたんです。そして日本軍は全く無抵抗ですから、弾一発も撃てない。米軍が無数の水陸両用車、水陸両用車というのも初めて見ました。トラックみたいな乗り物に乗って、それが水中からボートみたいに走ってくるんです。するとそのまま浜に上ってですね、タイヤーがついているんです。そのまま護岸を乗り越えて部落に入ってくるんです。で、山に登っていく。水陸両用の戦車を見て僕らはびっくりしました。初めて見る兵器ですから。そういうふうな高度な、非常に発達した米軍の化学兵器。それから小銃もですね、日本の小銃は、一発撃つごとに、薬きょうと言いまして、弾が出たカラのあとを引いて出して、それからまた一発入れて撃つ、そういうふうな旧式の小銃です。ところがアメリカのこの小銃というのはまるで機関銃ですよ。これ弾倉というんですが、弾が20発、30発ぐらい入ってる、これを小銃の底の方に装着してババババァーっと撃つ。まるで日本の機関銃ですよ。こういうふうな高度な装備を見て、みなさんあっけにとられた。と同時に2月8日のあの隊長訓示をみんな頭にすり込まれていますから、敵上陸のあかつきは全員玉砕あるのみと。で、小学校の子ども達がまず親をせかす。無学なおばぁ達が、どこから習ってきたか知らないんですが、「兵隊(ヒィータイ)や玉砕そうるはじどー(してるはず)。我達(ワッター)や自決さな(しよう)」そういう言葉を使いました。
玉砕、自決という言葉をですね、あの無学のおばぁ達、或いはおじぃ達が使い出して自決を急いだわけです。あっという間に。島は小さいし、130人くらいですかね、当時の人口は。
山の一ヶ所に壕を掘って、壕というのはほら穴ですよ。自分達でスコップとかつるはしで横穴の壕を掘ってそこに隠れていましたけれども、その壕の中で荷物をくくってる紐とか、或いは綱なんかで首をしめ、或いは松の木の枝に一家、4,5人首をつって死んだ所もあります。
それから私どもこの少年、旧制中学の学生達は、軍の動員命令によって監視(かんし)硝(しょう)勤務を命ぜられています。監視硝というのは、山の頂上にですね、何も設備はない、望遠鏡も渡されないでただ敵の飛行機とか、或いは潜水艦の動きを本部に電話で報告する役目です。こういうふうな監視硝勤務を命ぜられていましたので、自分達は兵隊の一員だという自覚もあるし、それと敵が上陸すると本部に行って指示を仰ぐ必要もありますので、私を先頭に丁度10名余りいましたが、ただその場にいたのは5名でした。5名が島の裏にある中隊本部に向かって移動する途中で、もうすでに米軍は島を制圧していますから、それを我々は全然知らないです。もう米軍は待っているわけですよ。ジャングルですから見えないです。急にバババーンと撃たれる。最初は飛行機かと思った。で、伏せました。伏せて立ち上がって「一人十殺(いちにんじゅっさつ)」という合言葉があります。というのは、一人(いちにん)とこっちが言うと向こうから十殺(じゅっさつ)と。一人で十人を殺すという意味ですがね。「一人十殺」という言葉、これ暗号ですよ。「一人一人(いちにんいちにん)」と言っても向こうから十殺という返事が返ってこないので、あーこれはアメリカーだな、敵だな、と初めて気づいたわけです。
5名ですから、2人は伏せたまま。我々後ろの3名は立ち上がって「一人一人」と合言葉を叫んでも、十殺という返事がないので、あーこれはアメリカーに間違いないと言うんで、我々は又、村の人達の避難壕に引返して行ったわけです。で、2人は別々の所に逃げたんじゃないかと思ったんですが。2,3日後に僕らはその日で米軍の捕虜になったんですが、あとから捕虜になった島の人達が、2人は向こうで死んでたよと、うつ伏せになって死んでいたよ、という話を持ってきたんで初めて、あー2人はやられたんだなとわかったんですが。捕虜を解放されてこの遺体、丁度ゲルマの島は小さい100人余りの人口のうち53名が自決して死んでいます。4日目に解放されてそれぞれ壕の中でも4日、5日たつと人間の死体というのは腫れ上がって腐れかけていますから、大変な悪臭ですよ。で、4日目に解放されてその遺体をそれぞれの墓に納めましたけれども、棺箱がありませんので、島の各家々にある和ダンスの引き出しを引き出して、それに折り曲げて死体を全部入れて墓に納めました。今でも島に行くと引き出しのないタンスがいくつか残ってるはずです。
この2人の遺体を収容に行った時に、先頭の男は、これは沖縄水産の生徒でした。頭の真ん中と、それからお腹2発。それから2番目の男は当時の県立二中、今の那覇高校ですね。そこの生徒でしたが、これは頭、即死ですよ。うんともすんとも言わない。ですから私どもはその経験から、天皇陛下万歳とかいう勇ましい、亡くなる時は、戦死する時は、兵隊達は天皇陛下万歳とかいう勇ましい声を上げながら戦死するんだという、そういう話を聞いていましたが、これは全くの嘘です。うんともすんとも言えない。それから傷を負うとですね、これはもう「痛いよう、痛いよう」で「パッタラゲーヤー」してもんどりうって我を忘れて、もう地面を転がり込むしかないです。天皇陛下万歳なんていう美しい姿なんて、これは全くの嘘だという事がわかりました。
2番目の頭のど真ん中を撃ち抜かれて即死した2中の生徒は、実は私の父の祖母方の実家の、一人娘の一人息子だったんですよ。この母親はパラオに行きまして、実は私もですね、小学校をパラオで出ました。南洋という。当時は慶良間から出稼ぎに行きまして、私も親に連れられてパラオという所で小学校を出ました。この私と一緒に行動して即死した、これヒロシーと言うんですが、このヒロシ君のお母さんもパラオにいたんですよ。戦後帰って来てから、僕と一緒に行動中にヒロシーは死んだらしいよという話をみんなから聞いたんでしょうね。ある日私の所に訪ねてきてました。「ワッターヒロシー、ちゃーし死じゃが(どうして死んだのか)」私はもうこれは返す言葉がない。「おばさん、ごめんね」と。その状況を話しする心の余裕は全くない。ただ「おばさん、ごめんね」と言って後はもう涙流しておばさんと抱きあって泣きました。(次号に続く)
学校の役割 その49
「砂漠は生きている」や「百獣の王 ライオン」を見たのはもう50年も前のことです。「砂漠は生きている」は自由が丘劇場、「百獣の王 ライオン」は渋谷の全線座でした。どちらの映画館もいまはありませんが、僕を生きもの好きにしてくれた映画だと思っています。ところで、何年か前に「砂漠は生きている」を再び見る機会がありました。よく覚えている場面もあれば、すっかり忘れているものもあります。砂漠の洪水の場面は鮮明に覚えているつもりでしたが、実際は記憶しているようなものではありませんでした。なぜ記憶しているものと実際が違うのか、興味のあるところです。
映画はあまり見ませんが、もう一度見たい映画があります。「平和の谷」という映画です。出来たばかりの渋谷のパンテオンだったと思います。この映画館も今はありませんが、両親が映画そのものよりパンテオンに映画を見に行きたかったのではないかとも思います。この映画を見たのも50年くらい昔のことです。どういう映画だったかまったく覚えていないのですが、20年以上経って、あぶり出しのように記憶が甦った場面があるのです。映画の題名とその場面を見たときの感情とともに甦りました。覚えているのはその一場面だけであとは全く覚えていません。
なだらかな丘陵地にどこまでも広がる麦畑だと思いますが、黒人の兵士と白人の女の子がさまよっています。おそらく戦火を逃れているうちに出会ったのでしょう。心が通い合うようになり、一緒に歩くことになったのだと思います。二人きりでどれほどの時間歩いているのか分かりませんが、二人とも荷物は何も持っていません。刈り入れた麦の穂がところどころにうず高く積まれています。疲れた二人はそのうちのひとつにもたれ掛かります。兵士がビスケットを1枚取り出して、女の子にあげます。食べ物はこれしかありません。女の子は受け取ったビスケットを半分にして兵士にあげます。互いに微笑を交わしながら小さなビスケットをかじります。麦藁に寄りかかりビスケットを分け合う場面だけをはっきり覚えていて、あとはおぼろげな記憶かさもなければ想像です。人の暖かさを感じると同時になんだか、とても切なくなりました。そのせつなさは、この二人は明日はもう生きてはいないかもしれないという絶望感から生まれたものだと思います。はじめて味わった感情だったのでしょう。
随分以前に調べたので、この記憶もはっきりしないところがあるのですが、ユーゴスラビアの映画で、確かベネチア映画祭でグランプリを受賞した作品ということが分かりました。グーグルで調べても今は何もヒットしません。記憶を確かめる手がかりがありません。もしかすると「砂漠は生きている」の洪水と同じで、実際は記憶とは違うものなのかも知れません。小さな記憶が時間と経験ののなかで、知らず知らずのうちに大きく枝を伸ばし、葉を繁らせて、別の樹に成長してしまうこともあるかもしれません。
京都の大学と東京の大学に通っている高等部の卒業生が久しぶりに会って、大学の授業(講義?)のつまらなさをお互い嘆きあって変に盛り上がったそうです。どちらの大学も特色のある大学として名は通っているのですが、いまひとつどころか全くダメだそうです。手厳しいです。そうして、今更ながら、思い出してみると珊瑚舎の授業はよくできていたと褒めてもらいました。うれしいのですが、この褒めてもらえるような授業のなかに僕の授業は入っていないだろうと思っています。いつも学ぶ意欲に追いつかないでいますから、きっとじれったい気持ちで彼らはいたのだと思います。じれったさが記憶の芽となればありがたいです。
記憶は育つものだと思います。勘違いとは別です。よく育ってほしいと思います。砂漠の洪水も、百獣の王の鬣も、そして麦畑のビスケットも僕の時間の中で大切な記憶に育っています。
珊瑚舎での時間がそれぞれの記憶を姿のいい樹に育てるような力を持っているようなものに皆でしていきたと思います。(ほ)
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