>学校をつくろう!

  第55号より
ふくぎのふぁー(講師・スタッフのコーナーです)

                                  理数講座講師 佐藤 寛之

 「うわっ、すげぇな、、、.《今年の3月、ゲッチョに誘われて珊瑚舎学習発表会に初めて顔を出した時,この学校の雰囲気についての率直な感想だ。ほぼ一日掛けて行なわれた生徒による学習発表内容は多岐にわたっており総じて無駄に元気があふれていた。少なくとも効率という点では極めて対極にあるような、エネルギーを四方八方に発散している生徒達を見て授業開始前に“この生徒たちに授業をするんだぞ”という(体力気力の)心構えを新たにしたのを覚えている。
 私はこの4月から珊瑚舎で理数講座と理科総合という2つの講座を受け持っている.理科総合とは高校卒業認定試験を目標にした講座で高校理科の範囲を,そして理数講座は理科や数学的なものの考え方、楽しさを,教えるのだそうである。実は後者の理数講座が初めて講義を持つ私にはかなりの難題であった.エントモさんから「この学校の生徒は理系が弱いのでそこらへんをお願いします。何を教えるかも含めてお任せします!《と,授業内容の説明を受けたからだ。“理系が弱い=これまでの積み重ねがない”ということであり,つまりこれまでの積み重ねがなくても理屈をこねる理系の考え方の面白さを伝え,なおかつそれを楽しい話で,ということである。・・・難題であった.う〜ん,と考えた末,比較的取っ付きやすい生きものの話を基本にし,それらを取り巻く気候や地形、その他もろもろの地球上の物理的制約がどう生きものの存在に影響を与えているか,というようなことに着目できるような内容で講義に取り組むことにした。
 講座には現在10人強の生徒がいる。最初の印象通り個性が強い生徒ばかりでみんな元気がある。生徒の直感力による授業内容への着眼点にはすばらしいものがあり,粛々と授業を,というのとは違い毎回双方向のやり取りがあるため,他の学校等での講義に比べ格段に楽しいものの,その個性に負けないようにするためこちらも毎回必死で授業に臨んでいる(もっとも授業内容は反省点も多く,生徒の反応を見ながら軌道修正することでなんとか現在に至っている状況ではあるが,,,.)。  学校の規模からすると個性的な生徒が多いことに加え,生徒数からすると多すぎるほどの講師陣(こちらも相当に個性の強い元気な方が多いように思われる)。これらの人間の層の厚さがこれまでそしてこれからの珊瑚舊の大きな財産であるなあと端から眺めて思っている。自分がその個性の強い一員になれているかは分からないが,このどこにでもある訳でない学校との関わりを週一回の授業ではあるが大切にしていきたいし楽しんでみたいと考えている。


学校の役割      その45

 横綱の朝青龍が11月場所でけたぐりで勝った一番があった。対戦相手は誰だか忘れてしまったが、解説者がけたぐりは奇襲で、横綱の地位にある者はできてもやらない方がいいのではないかとういニュアンスのコメントをしていた。実際に「できてもやらない《という言葉を使ったのではないが、大昔に読んだ北壮夫の「船乗りクプクプの冒険《を思い出した。
 ある未開の島で囚われの身となったクプクプ一行は月蝕をネタに酋長らを騙して解放してもらおうと相談する。しかし、彼らの思惑は見事に外れ、酋長は月蝕を科学的に説明し、皆既月蝕の正確な時刻まで割出していた。さらに、ロケットを月に送ることも可能だが、月にまつわる古くからの伝承を大切にするため、それを壊すようなことは「できてもやらない《と、クプクプ一行の近代文明信仰、科学技術信仰を批判する。
 文明の歴史は戸惑いや葛藤はあるものの、「できることはやる《を積み上げた歴史だった。もし、「できてもやらない《文明の歴史を積み重ねてきたとしたら、人間は何を手に入れ、世界はどんな具合になっていたのかちょっと興味深い。SFならぬNONSFの小説や映画があったらきっと面白いかもしれない。
 老子の第80章に「什伯の器(文明の利器)有りて用いざらしめ・・・《とあるが、「用いざらしめ《は「できてもやらせない」ということだから「できてもやらない」とは違う。第80章に多用される使役形はどうも、老子にはなじまない。アーミッシュは「できてもやらない《のだと思うが信仰の力が働いていて、異教徒や無宗教者の「できてもやらない《にはつながらない。「できてもやらない《はお上や神様抜きの人間個々の内発的な意志としてやらないことである。
 もう充分「できることはやる《歴史を歩んできたので、「できてもやらない《歴史をスタートさせていいのかもしれない。何を何故、「できてもやらない《のかは、何かに教えてもらうものではないだろう。「できることはやる《歴史から学んだ人間の個々の想像力に頼るしかないのだろうと思う。
 孔子は「心の欲する所に従いて矩をこえず《と言う。言い換えると「心の欲せざる所に従いて矩をこゆ《ということになる。心の欲せざる所は矩をこえるから「できてもやらない《ということだろう。あるいはこういう発想自体と無縁なのかもしれない。
 しかし、「心の欲するところ《はかなり見えにくい。こんなにすっきり言えるものではないと、僕は感じている。「矩《もはっきりしないが、自分が育んだ自分の「矩《であり、心と離れて「矩《だけが一人歩きするようなものではない。 是非もう一度、ここで紹介したい文章がある。通信53号に掲載された高等部の生徒の文章である。慰霊の日に魂魄の塔に出掛けた時の思いをつづった文章である。
 『焼けるような暑さだった。僕は魂魄の塔の前に立ち、六十年前にそこで起こったことを想像しようとした。サトウキビ畑、死体の山、泣き叫ぶ子ども。僕は身震いをした。
 そんなことがあったのに、近くには綺麗な花が咲いていた。  もしその花を踏んだとしても、花がどう思うかなんて僕らには分からない。それなのに踏まないよう避ける人もいれば、何も気にせず踏む人もいる。その違いはなんなのだろうか?
 きっと踏まなかった人は、踏んだ時のことを想像し心が痛んだのだ。たとえ花の気持ちが分からなくても、想像することはできる。分かろうとすることはできる。以下略』
 僕たちは学ばなければならないと思う。彼の言う「想像すること《は学ぶこととともにある。(ほ)