>学校をつくろう!

  第52号より
ミュージカル「月夜の相対性理論」を観て

 フタを開けてみたら、驚くほどの客の入り。立ち見さえ容易ではないほど、観客が集まったのだ。
 総出演の迫力。それがミュージカルの感想だ。
 生徒一人一人の個性が、うまく生かされた役づくり。それでいて皆の息のあったやりとりやダンスも繰り広げられる。中・高生たちが踊るかと思えば、夜間中学の生徒さんらによる沖縄口のかけあいが始まる。その合間にはさまれていた"プロ"の歌者たちも、ハングルから八重山語まで様々だ。それら、違和と調和が織りなすタペストリーにすっかりひき込まれる。まさに「月夜の相対性理論」という題が、舞台全体を象徴していた。歌や踊りが上手な人間だけが作った舞台ではなく、スコーレにつどう生徒、学生が総出演していて、そんな場を作り上げている…。そのことの「すごさ」が伝わってきて、終了頃には、思わず泣けそうになってしまった。
 舞台終了後、見に来ていた卒業生たちの言動にまた思うことがある。「○○があんなに踊ってて、見ててもう胸いっぱいになって―」「そうだよね。見てる方がドキドキして…」ソナやミサ、キッキらがそう言ったかと思うと泣きだした。ほとんど「うちの子が…」という保護者感覚なので笑ってしまう。「でも、あたしたちの時にやれたら…。ってちょっと悔しい」そんな声も出た。
 でも、それは多分違う。彼女ら、卒業生たちの作った「時」があったから、この舞台が作られた。「旅の歌」がミュージカルの中で唄われていたし。この曲は1年目の生徒達がつくった歌だ。つまり、舞台に総出演していた生徒、学生たちの背後には、これまでスコーレで時を過ごしてきた皆の姿がちゃんと写しだされていた。そういう意味で、本当にスコーレの生徒、学生が総出演していたと思ったのだ。
 学校という場は、時々こんなリアルな感動を与えてくれる場だ。そのリアルさは、唯一回限り…という意味でもリアルだ。そこにつどった人々が、その場で作り上げた一瞬だけのもの。だからこそよけいに心に強く残るものがあるのだろう。学校とはまた、なんとゼイタクな場でもあることか…そうも思う。               ゲッチョ(盛口満)


学校の役割      その42

 沖縄タイムスの夕刊を手にしたら、「教員OB活用し無料補習」という見出しが目に付きました。1面の囲み記事で、サブリードには「格差拡大防止07年度から」とあります。「経済的理由から塾に通えない子と通える子の間に格差が広がるのを防ぐことが狙い。」だそうです。発案した文部科学相のコメントも紹介されていて、「格差社会の問題が議論される中で、塾に代わる居場所で勉強をしたい子に手を差し伸べる方法はないかと考えた」結果だそうです。本末転倒だという教育関係者の批判も紹介されていました。
 同じ1面の「寸評寸描」というコラムの「欲しい手応え。基地被害者と面談する予定は組めませんか、大統領」も目に止まりました。アメリカの大統領が北朝鮮による拉致被害者の家族と面談したとの報道を受けての感想でしょう。
 この二つの記事、どこかで繋がっているような気がしましたが、そのまんまにしていました。翌日、珊瑚舎のベランダで椅子に座って雲見をしていると、どういう拍子かまた思い出して、とり止めもなくこの二つの記事について考えていました。
 文部科学大臣の塾に代わる居場所案は学校が抱えている問題を助長する結果になる発想であることはもとより、さらに困ったことは、放課後や土曜、日曜などの児童・生徒が学校から解放された時間にも国の教育観のもとに彼らがおかれる事が考えられます。そんな簡単にOKが出せることではないと思います。
 この居場所は学校教育の埒外に置かれるものですから、学校教育法などの制約を受けません。好きにできます。憲法9条を削除しようとしたり、教育基本法を変えようとする動きと一緒になっている居場所作りでしょう。
 ファシストは私たちが誕生させ、育てます。この世の中のいろいろな場面で私達が気づかぬうちに育てているのです。やがて正義や善意を身にまとい、微笑と穏やかな物腰でスマートに現れます。 格差是正や居場所作りなど、耳当たりのいい言葉です。しかし、格差をつくり、居場所を奪ったものが、格差を是正します、居場所をつくりますといったところで、できるはずがありません。なぜなら、格差を是正し、居場所を作るためには、格差が生れた原因、居場所を奪った原因を考えなければならず、それは自らの非を認めなくてははならないことになります。ここまで成長した自分の首を自分で締めるようなことはできないからです。
 平和貢献、テロ対策、人権擁護、拉致問題、いろいろな言葉を利用します。
 拉致問題は当然許されるべきことではありません。その非道を訴えるのは当然です。しかし、悔しいことに被害者の家族は利用されているとしか思いません。テレビなどの報道を見るたびに、臍をかむ思いです。家族の怒りと悲しみが深ければ深いほど、そしてマスコミが取り上げる機会が多ければ多いほど、誰が一番得をするのか考えなければなりません。解決しようとするふりをして、この状態を長引かせる方がいいと考える者がいるのです。許せません。 どうすればいいのか。北朝鮮は別にして、国家は脇に退き、関係する非政府組織が連携して解決を目指すべきだと思っています。
 拉致による人権蹂躙は許すことは出来ないけれど、自分や友人の人権蹂躙には蓋をしておかなければなりません。その道具は正義や善意に繋がる耳当たりのいい単語やフレーズです。自分をそれらで装い、自分が作った敵の前にたちます。うっかりしていると騙されます。
 「寸評寸描」のシニシズムは被せた蓋をとる力を持っています。二つの記事はどこかで繋がっていると思ったら、蓋で繋がっていました。「蓋をする」と「蓋をとる」とでは大違いでした。(ほ)