>学校をつくろう!

  第51号より
     開校5周年記念にあって

 今回は珊瑚舎スコーレ開校5周年ということで、これまで珊瑚舎スコーレを応援してくださっている方々の中から開校前、開校直後からの支援者何人かの方々に記念の文章を寄せていただきました。 なお敬称等は略させていただいております。

  岡村 健・・・福島県
 昨年のアジア・じんぶん旅行の案内に、湯本貴和さんが「日本の森はちょっとひどい」と考えていることが紹介されていました。
 本当にひどいのです。あろうことか、国有林の守り手であるはずの林野庁が天然林を伐採しているのです。1998年に林政抜本改革が行われ森林の環境面を重視することになったはずでした。それなのに、貴重な天然林を破壊し続けているのです。
 下北半島のヒバ、北海道十勝のエゾマツ、トドマツ、奥尻島のブナ、秋田スギ、木曽ヒノキと各地の原生林、天然林を見て歩きました。山奥深く、これまで手の入らなかった森がつぎつぎ伐られていました。「抜き伐りによって森を若返らせる」という理由は無論ウソ。乱暴極まりない伐採方法で、林野事業会計の辻褄合わせのために売り飛ばしているのです。ルポを「週刊金曜日」やつり雑誌に掲載してもらっています。世論の力でなんとか森林破壊をやめさせるつもりです。

  安田 守・・・長野県
 スコーレに行ったのは今から三年前の春。居心地のいい空気の中で、僕はそのころ始めたばかりのイッカクをめぐる旅について語ったのだった。僕の旅はそれから四回をかぞえるようになった。はじめのころのように「オー!スゲー!」と喜んでばかり、というわけにもいかなくなってきた.
 僕が下宿するイヌイットの家の子供たちは、仕事を求め南の都市へと次々に旅立っていく.言葉を交わしたことのある若者が、その翌年には自殺して亡くなったと聞かされる.アザラシやイッカクなどの 動物の肉に、PCBといった化学物質がかなりの濃度で含まれていることが明らかになってくる.僕が毎年イッカク観察を行っている海峡の近くでは、大規模な鉄鉱山の再開発が始まろうとしている。
 あこがれだった遠い世界も、僕たちが日常をくらすこの世界と同じ問題をかかえている。グローバルの恐ろしい一面が、僕にもようやく見えつつある。

  内田 俊夫・・・東京都
 学校をつくろう通信の表紙にあった汎用画像データが珊瑚舎スコーレの「トンネルガジュマル」に変わったのが21号。そのシンボルカラー「青」は私も大好きな色です。
 社員研修に招いた経営コンサルタントに変な質問をしたことがあります。「うちの会社は何色にみえ ますか?」講師の困惑していた顔が印象的でした。私が期待した答えは「薄手の青」。社員の創意で 軽快に変革していくイメージです。どんな色、どんな濃淡・・・それによって対象となる組織の方向性、柔軟性、成長性等の特徴を垣間見ることができます。
 51号を迎えた今、このトンネルガジュマルと学校をつくろう通信が完全に一体なものに感じられます。これから重ねられる珊瑚者スコーレの歴史が、時代の変遷を越えて、澄んだ「青」と一体となり、ここに集う皆の心に深く浸透いくことを願っています。

    新崎 盛暉・・・沖縄県
 沖縄と場の力
 珊瑚舎が学校づくりの場に沖縄を選んだのはなぜだろうか。「学校を作ろう!通信」は、それなりに目を通しているつもりだが、十分納得できているわけではない。
 観光用語に「癒しの島」という言葉がある。一方辺野古の闘いは、確かに人間創造の場になっている。珊瑚舎は、その中間点に位置しているのだろうか。
 矛盾の集積する沖縄で、人口は増え続けている。人びとはそこに何を求めようとしているのだろうか。土着派の一部は、こうした状況に苛立ちを募らせている。そうしたせめぎあいも含めて、沖縄には、ある種の「場の力」があるのかもしれない。
 そうだとすれば、わたしたちは、それぞれのやり方で、この「場の力」を活かしつつ、これを強めていく努力をしなければなるまい。

  曾田 蕭子・・・東京都
 「家出をしてきた子供がチャイムをならしています。チョットお待ちください・・・」 電話口で、ナンでもないことのように遠知さんはこういわれました。
 二十年まえのことです。稀有な先生だ、と思いました。  星野さんと遠知さんは娘の先生でした。

 珊瑚舎スコーレには、友人の二人の娘さんがお世話になりました。
 東京に戻った彼女たちが感度のいいアンテナを持ち、新鮮な言葉を紡ぐのに驚かされました。そうやって自分たちの生き方も紡いでいかれているらしい。
 いっぽう私の娘は、高校を終えるやいなやインドネシヤ語を学び始めました。
 「勉強以外は高校時代にしちゃったから」ですって。きっと珊瑚舎スコーレも海のものとも山のものともわからない若い人々が、自分の内側の何か大切なものに気づいていくのに不可欠な場なのだと思います。

  里見 実・・・千葉県
 私事ながら、来年一杯で大学は定年、これからは道楽三昧でと浮き立っています。学校の仕事も道楽の中と心得てはいたのですが、ふり返って見ると、まだまだ「お勤め」の域をそれほど脱していたわけではなく、まあ、これからが本番です。仕事や「学び」といわれているものを「道楽」に近づけていくのは、けっこう大変なことで、珊瑚舎なども人知れずいろいろご苦労されているのではないかと推察しますが、お互いに呼びかけ合いながら、これからも「無用の用」を追求していきたいものです。祝辞は控えろ、とのお達しですが、山坂越えての五年の節目祝い、やっぱり嬉しいことです。

  高良 勉・・・沖縄県
 はみだして生きる
 沖縄に、学校を創るという。しかも、既成の公立や私立の学校とも違うという。なんという無謀な計画だろう、と思った。しかも、「経済的に日本一貧しい県」と言われる沖縄で。
 珊瑚舎スコーレの創立を、星野先生から相談されたときの感想であった。あれから約十年が経ち、学 校は開校五周年を迎えた。夢はあきらめてはいけない、理想は高く持たなければ、そして夢は現実となっ
た。  私自身は、珊瑚舎スコーレをあまり応援できなくて、小さくなっている。依頼された講師も、タイミ ングが合わずまだ実現していない。心の応援だけは、しているのだが。
 珊瑚舎スコーレは、既存の社会制度からはみ出したところがある。私は、少々はみ出した生き方が好 きだ。そこから、新しい社会や文化が生まれると実感している。学校も、生徒もはみ出したところに誇 りを持って、新しい夢へ向かって歩み続けてほしい、と祈っている。

  上田 秀一・・・神奈川県
 珊瑚舎の開校に出会った谷川俊太郎さんは「種はこぶ風はまれ人土はきみ」と詠んでくださった。そして現在の珊瑚舎の授業について星野さんは、沖縄の風土とそこに暮らしてきた人の力を借りて、いろんな人が関わって作っている場であると説明している。
 開校から5年前の '96年4月、星野さんは職を辞して新しい学校を創る活動に専念した。四百名近くからなる支援者の会もできた。第一回会合で「なぜ沖縄に学校を作るの?(東京でも学校を必要としているのに)」と質問が出たが、その答えは理解されなかった。そんな船出だった。'97年に星野さんが那覇に転居後もなんとか定期的に支援の会を開き、'01年に珊瑚舎が開校する3月、遠藤さんを沖縄に送る会を開催するまで続いた。
 いまや珊瑚舎で生徒に会えば誰もが珊瑚舎の目指す場の存在を目にできる。それは、開校までの5年間を支えた内田二佐子さんのような支援者の「意思」を見るときでもある。

  大島 信子・・・埼玉県
 石原吉郎に「花であること」という詩がある。
「花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花の形のままおしかえす
そのとき花であることは
もはや一つの宣言である
ひとつの花でしか
あり得ぬ日々をこえて
花でしかついにあり得ぬために
花の周辺は的確に目覚め
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ」
 珊瑚舎の設立を夢見て、さまざまな準備のプロセスに立ち会うたびに私はこの詩をたびたび思い出していたような気がする。「花へおしかぶさる重み」を「花の形のままおしかえす」・・・珊瑚舎の設立とこの五年間の時間はまさにそんな歩みそのものであったのではないか。珊瑚舎に出かけていくたびに私は勝手にそんなことに思いを巡らせ、ついでに勇気をもらっている。あの素敵な学校が、「珊瑚舎」という「花である」ことを「宣言」しつづけ、どこまでも「花の形のまま」であることを心から願っています。

  手塚 田津子・・・鹿児島県
 珊瑚舎スコーレ5周年に寄せて
 私達一家が屋久島に引っ越してようやく家も出来落ち着いた頃、東京に住む友人の友人という遠藤さんと星野さんという人が訪ねてきてくれた。その日囲炉裏を囲み熱く語り合った光景が今でも眼に浮かぶ。そして、十数年の月日が流れ、あずきとみおの卒業を祝う会に私は初めて沖縄に行った。
 うりづんなーでの生徒たちのがんばりを見ていると、忘れていた何かが胸にせまってきた。昔、私にもこんな世界があったら、今の私はもっと大きくなれていたんじゃないかな、今からでもここで学びたい、そんな気持ちがした。生き生きと、自信にあふれた笑顔をみて、娘たちは珊瑚舎で愛されて育てられていることを強く感じた。
 海のものとも山のものともわからない珊瑚舎スコーレになんの躊躇もなく娘たちを送り出したのは、あの最初の出会い日から、共感する何かがあったからであり、それは娘たちを通じて今ではしっかりと根を張っている。これからもまっとうに生きる道を探りながら、一緒に学校を創ろう。それは私が自分自身の人生を創っていくことでもある。

  手塚 賢至・・・鹿児島県
 「学校をつくろう」なんと魅力的な呼びかけだろうか。自らの意思を他者にゆだねない自由な学びの場を創りだそうとの決意がこめられた力強い響きが好きだ。
 学校は求める人と与える人が自在に交わり共に育まれる学びの場だ。珊瑚舎は学びの旅人達が集う寄港地としてありつづけよう。
 学校をつくろう!!天空に向かって言葉を放ち、歴史のぎっしりつまった沖縄の大地を一歩一歩踏みしめていこう。

  所 扶久代・・・神奈川県
 あれは不思議な集まりでした。「沖縄に学校をつくろうと思う」と呼びかけたはずの星野さんが何も語らなかったのです。こちらが期待していそうな彼の希望や願望、先行きへの予測や可能性ましてや理想や教育理念なんて恥ずかしいととでも思っているのか一切語りませんでした。唯一、沖縄の人々と土地の持つ力を借りたいと語り「だから沖縄なのだ」と言いました。
 小さな店はカウンターも小上がりもぎゅうぎゅう詰めで、料理も泡盛も置く場所すら無かったせいか、ほとんど何も食べず飲まずおまけに未来への希望というおみやげも無いまま空腹と不完全燃焼をかかえて帰りました。
 でも内心これで良いのだ、とも思ってました。あの場が星野さんの夢と引き替えに協力するなんて事にならなくてホント良かったです。
 これからも思う方向にお進み下さい。関心と共感を持って見守っています。

  田坂 嘉庸・・・沖縄県
 珊瑚舎開校5周年、おめでとうございます。
 珊瑚舎のホームページのタイトルに「学校は 思索と表現のための場 創造の場です」とありますが、この5年間は、先生方と子供達による、その「場」の創造への挑戦であったのではないかと思います。 そこでの経験は、子供達の心の中に確固とした場、あるいは芯となったことでしょう。
 人と人が真剣に向き合うことが何か疎んじられるような世の中にあって、珊瑚舎では、それが当たり前となっていること、大変素敵です。
 星野さん、遠藤さん始め先生方のご健勝と、珊瑚舎が本物の学校として、さらに飛躍されることをお祈りいたします。

  奥野良之助・・・和歌山県
 「沖縄と私」
 1945年4月、沖縄に米軍が上陸した時、私は中学2年生になった。教育よろしきを得て、神国日本の不敗を信じる軍国少年である。その頃から始まった空襲にもめげず、B29や艦載機を相手に戦った。実際は逃げ回っていただけだったのだが。
 沖縄地上戦のすさまじさを知ったのは、敗戦後だった。私の空襲の経験など比較すべくもない。もし、降伏が遅れ、本土決戦になっていたら・・・。
 その後、本土決戦が避けられたのは、沖縄が3ヶ月もの時間稼ぎをしてくれたお陰だと思うようになった。沖縄は、当時本土に住んでいた私のような子供の、命の恩人だったことになる。以後私は、沖縄へ足を向けて眠れない、と思いながら、そのくせ、沖縄のために大したことも出来ずに暮らしてきた。  珊瑚舎に学ぶみなさん、こんなことを思っている「本土」の老人もいることを、頭の片隅にでも置いて下されば幸いです。

  桐谷 夏子・・・東京都
 サンゴ舎を訪ねた時、「こんにちわー」と声をかけると4,5人の若者が興味津々の、でも誰だこいつって顔で走ってきた。樋口さんが「ナッコさん、あいかわらずよーく通る声ですね。」と後を追って出てきた。
 「あっ、この学校、いい感じで開いている、場づくりに成功しているんだ。」と思った。  私は全国のいろいろな現場で演劇を道具にワークショップをしている。一番大切なのは、開かれた場づくりと人間関係。その両方をサンゴ舎に感じたのだ。「サンゴ舎やるな!」よくあるフリースクールのちょっとジメッとした後ろめたい雰囲気はみじんもなかった。
 おめでとうございます。沖縄の地についた新しい学校。根をのばし木陰をつくり、花さかせ、そして実がなりますよう、その種を風や鳥が運んで、いつか、どこかで続々と新しい学校が始まったら・・・私たちの未来もすてたもんじゃない、と思うのです。

  谷川 俊太郎・・・東京都
 教科書から学べないことが貝殻から学べる、風から学べる、近所のおじいさんから学べる。文字から学べないことが声から学べる、顔から学べる、音楽から学べる。人間から学べないことが魚から学べる、花から学べる。そして学ぶ必要のないときは、ただ生きていることを穏やかに楽しむことができる。珊瑚舎スコーレで、私はそんなことを学びました。

  家門 収一・・・東京都
 仕事をやめて五年余となる。ガンバらない生き方を、その時々を楽しく生きる生き方をと考え、様々な場で、そう発言してきた。しかし、実生活でそういう生き方をしていくことはなかなか難しいもので、実際には、いつも職場のことばかりが頭の中をよぎる生活がつづいていた。そんな日々を送っているうちに身体に変調が顕れはじめ、眠れない、下痢が止まらない、いつもだるい・・・。危ないナ!と思った。丁度娘たちも自活の目途が立ったこともあって、辞めよう!五年半前退職した。以後、勤めはしていない。主夫まがいのこと、実はたいしたことは出来ず、家族の食事をつくることぐらいである。
 春になると、一週間から十日ほどお遍路旅に出る。四国路を歩いているとその土地土地の人々のやさしさやあたたかさに出合う。そんな中で、梅の白い花、菜の花の黄とかおり、雑木林の中の山桜、山つつじ、何も考えず、ただ足を先に進めるだけ、短い間に季節は変化していくのを感じながら・・・。


  "7人の講師"コーナー

 このコーナーは珊瑚舎スコーレ開校当時から現在まで講師を勤めてくださっている7人の方に書いていただきました。

  「トライリンガルプログラム」の意義     アジア講座講師   那須 泉
 「アジアの民族衣装を紹介したら『汚い!』って言われたの」。国際理解教育の出前講座で小学校へ行った友人がこぼした。日直の「気を付け!」の号令は「Attention!」、給食時は全員で拳をあげて「Let's start」だったことで友人は更に肩を落とした。
 沖縄では小学校の99.3%が英語活動に取り組んでいる(県教育庁義務教育課)。「生徒たちは英語を通じてアメリカしか見えていないのよ」と憂う知人の小学校教諭の言葉を思い出す。食事の前の「Let's start」が果たして教育的意味があるのかわからない。でも英語活動に励むことが「アジアの民族衣装」は『汚い!』に連なるとしたら、アジアへのまなざしを閉ざすことになりはしないか?
 2006年度珊瑚舎スコーレ専門部では東南アジア語が学べる「トライリンガルプログラム」が始まる。跛行的な沖縄の国際理解教育に抗する砦となってほしい。

  「竹ちゃんは一生遊べないかも」     沖縄講座講師   宮城 竹茂
 今日は宮城竹茂が柄にもなくスーツを着てのお出かけだった。ある人と会うためである。学校関係と聞いていたので多少無理をしたが、現れたのは何ともラフな格好の二人だった。そう、今から五年程前、星野人史との初めての出会いであった。隣には沖縄のヒージャー(山羊)みたいなゲッチョこと盛口満がいた。豪華なデイナーと言いたい所だが、もちろんソフトドリンクでのお話。「沖縄にこんな学校をつくりたい。」沖縄に着いて四度、デイゴの花は既に散っていた。星野は語り始めた。自由、自立、平和=愛、生徒が関わる、皆がつくる学校づくりをしたい。熱い思いが伝わってきた。いろんな出来事に無頓着な沖縄で生きている僕にはよく理解出来なかったが、人々の心、美しい自然、教育の在り方によって社会の現象が大きく変わることが、紛れもない事実であるのは知っていた。
 深紅のデイゴ咲く平成13年4月21日、これは現実だ。カリユシ(めでたい)珊瑚舎丸の船出の日が来た。珊瑚舎スコーレ開校である。「かぎやで風」の歌と踊りに、出席者全員が航海安全を祈った。何故か必殺遊び人宮城竹茂も、御真人(ウマンチュ)の感動の涙の中に存在していた。
 あれから五年目。「一生遊んで暮らしたい」。いつも口癖の沖縄県山(やま)大学卒業の竹ちゃんも、生徒たちに遊ばれながら珊瑚舎の人づくりにいまだ関わっている。
 山がんまりの最終実現、珊瑚舎の学校をつくろう!が続く限り、これからも小さな尻を叩かれそうである。
 沖縄の「地」と「血」と「人」の温もりを授かりながら、自由、自立、平和という高価な魚を着実に釣り上げて、皆に分け与えて行く珊瑚舎丸が走り続ける限り、本業の必殺遊び人にはまだまだ、戻れそうにない。

  「授業はライブだ」     自然講座講師   盛口 満
 「こんな人数で授業なんてできんの?」
 珊瑚舎が始まる年、僕は正直そう思っていた。
 1クラス40人― 長らくこんな環境の下で教員をしていたからだ。が、スコーレが始まってすぐ、それは杞憂であることがわかる。
 今、僕は高等部1年と専門部で授業をしている。高等部なら、だいたい3人、多くて4,5人相手の授業だ。
 「わかった!」
 ラクがこう言う。ラクは思いついたらすぐ発言する。その「わかった」の中身はトンチンカンなこともあって一同の爆笑を生むが、それが授業の場をやわらげる。
 「○○じゃない?」 シュンが一言口に出す。
 もっとちゃんと説明しろよ、と言いたくもなるが、この一言には要注意。思いもかけぬことを口にする。それはラク以上にトンチンカン― それは時としてビックリするほどの― こともあれば、授業の構成をその場で考え直さなくちゃならないほどの鋭い一言であったりする。
 「さっきゲッチョは○○って言ったから△△じゃないのかナア」
 レイはこの二人とまた違う。今までの授業の流れをひきよせ、冷静に判断する。ものがつながりあった時に一番感動するのが彼だ。
 一番人数が少ない時の3人でさえ、こんなふうにそれぞれが違い、それが響き合う。もっとくだけて言うと、僕を含めた皆でかけ合いマンザイをしているような時がある。
 テープレコーダーがあればナアと思うことがままある。授業がうまくいっている時ほど、僕もその渦中に巻き込まれ、彼らの発言をメモるヒマもないから。
 でもおそらくそれは違うのだろう。
 今の高1とは、また違うおもしろさが昨年の高1にはあった。その前年もまたしかり。授業はライブだ。うたかたに産まれ、消えゆくその場は、記録で再現できるものではない。記憶すら細かいことは残っていない。バクゼンとした記憶が、その場にいた者の共有感覚として残っている― それがリアルな姿だろう。
 だから残念ながら、授業の様子をここでは再現できない。それは、その年々、その場にいた者しか経験できないという限定品なのだ。だからTVでもなく本でもなく、学校の授業がおもしろいのだ・・・と思う。
 授業は僕にとってキョーフの的であり、充実の場である。生き物の世界を教室内で扱うのはきわめてバーチャルでありつつ、生き物を見る時のもっともリアルな視点をもらえる場でもある。
 僕は珊瑚舎が教員としての勤務先としては二校目だ。そのため他と比較するなんてできないが、珊瑚舎は今の僕という人間にとって、いい学校と思う。
 来年はどんな授業になるだろう。
 今からビビっている僕がいる。

  「出会い」      音楽講座講師   屋良 文雄
 人間は出合いの中で育っていく動物である。僕の人生も同じで、両親との出合いから始まって、自分が住んでいる環境、そして学校、学校が一番の出合いの場所だ。
 友達との出合い、無我夢中になるもの、ドキドキするもの、かっこういいもの、なんでもかんでも挑戦してそこから自分探しが始まる。
 僕の人生もそこから始まった。小学校の頃は画家になろうと思った。中学校はスポーツにあこがれ、野球、卓球、テニス、陸上、特に陸上が好きで、スパイクをまくら元に置いて寝るぐらい夢中になった。オリンピック選手を目指してがんばった。地区代表で400米に参加した時、マーチングバンドの生の音楽を聞いて感動し、音楽に転向、クラリネットに出合い、夢中になる。
 19才の時初めてピアノに出合った。もうたまらない。毎日、毎日、弾きまくった。気がついたら1日に15時間も弾いた時もあった。
 66才、今もピアノに向かって自分探しに夢中である。
 サンゴ舎スコーレとの出合いもそう、音楽の楽しさを教えに来たつもりだったのに、反応なし、生徒一人、ひとりの顔色をうかがいつつ、ほら音楽は楽しい、楽しいだの連発、生徒の半分は僕の楽しい音楽を聞いて寝てしまっている。でも時間が解決してくれた。一人又一人音楽の楽しさにひかれて近づいて来た。
 やったー!今は生徒と一体となり楽しいコーラスが広がっていく。生徒と出合って自分が育っていく。音楽を通してたくさんの友達ができた。出合いにありがとう。
 出合いのために学ぼう!きみは種、ぼくは土。ぼくは種、きみは土。僕達の相対性理論はどこまでも、どこまでも、広がって行く。

  「思えば何も無かった」     英会話講座講師   正木 元
 思えば何も無かった空き部屋でにぃにぃに大工さんと勘違いされ、にぃにぃ(紅型講師)を随分つっぱた生徒が入学するんだと勘違いして・・・棚や黒板の取り付け、イス机を運びながら「どんな生徒が来るのかな」と想いをはせながら、トモッキー(1回生)と木工所に通いながら・・・、
 入学式では3名の生徒が入学しました。「本当に学校として成り立つのか??」というぼくの心配とは裏腹に、そのときホッシーは「ここを選んでくれてありがたい、3名も来てくれるという事はありがたいな」とたばこ吸いながら話していたのが昨日のようです。
 ぼくは、まったくの素人で英会話を教える以前に生徒とどう付き合えばいいのか?生徒と講師の距離はどのようにとればいいのか???で悩み考えていました。ホッシー、エントモのアドヴィスは「ゲンサンが楽しめばいいのよ、とにかく英会話に興味を持つというか異文化に色々と興味を持つようにしていけば・・・・あとは生徒がやっていくよ」といわれて納得したような気になっていましたが今も同じことで悩んでいます。南アジアでの活動に携わっていた頃、地域の人たちとよく参加ではなく参画することの大切さを話し合っていました。その延長線上に珊瑚舎があったような気がします。この5年間を振り返ると「場」と「観」を考えさせられる5年間でした。これからもアメーバーのように様々に容(かたち)を変え生き物としての「場」がどんどん広がっていくことにぼくなりに関わらせて欲しいと思います。
 生徒よりも講師の数が圧倒的に多かった珊瑚舎、
 いつも真剣だった珊瑚舎、
 何かが起きそうな期待をくすぐる珊瑚舎、
 みんなで創る珊瑚舎  生徒と講師の数だけ答えのある珊瑚舎、
やっと You can not win, if you do not play.の意味がちょっとずつ分かったような気がします。色々な生徒に出会えたことに心から感謝します。ありがとう。ダンニャバッド、ニファイユ。

    「生きている間は、すべて勉強だ」     体育講座講師   新垣 千里
 珊瑚舎スコーレ五周年、おめでとうございます。
 「開校当時からの講師の一人なんですよ」と星野さんから聞いた時、正直びっくりしてしまいました。もう五年も経っていたんですね。私自身、講師のお話をいただいた時、期待より「自分に出来るのか?」と言う不安が大きかったのを覚えています。初めは、子供達とどう接していいのか分からず、様子を伺いながら手探り状態で、よく、星野さんや遠藤さんに相談ばっかりしてました。
 その中で印象に残ったのが、「教えると気張らないで、言い出しっぺになるんです。」の一言。その言葉で、いろんな事が、一気にふっ切れました。とは言っても悩みがすべて解決してるわけではないのですが、悩んだら、とにかく子供達に聞く!それだけで皆を心を通い合わすことが出来るんだと気がつきました。
 「生きてる間は、すべてが勉強」この精神で、これからも皆を楽しんでいきたいです。

  「どうも吉田です!」     美術講座講師   吉田 悦治
 どうも、吉田です!先月、出張先の大阪で「その男、榎忠(エノチュウ)」という展覧会を見ました。エノチュウという男は、60年代後半から関西を中心に活躍した変なおじさんでもあり、人間の可能性を浮き彫りにするアーティストです。大阪万博では、日焼けで万博のシンボルをお腹に刻印し、街を半裸で闊歩した男。さらに、全身を「半刈り」にして「ハンガリー」に行ったかと思えば、鉄道車両や船を一人で解体し、20トンにおよぶ廃鉄で「スペースロブスターP-81」を作った男なのだ。
 吉田はライフワークとして、変なおじさんを追いかけているんです。「エノチュウ」もその一人ですが、私がもっともリスペクトしている変なおじさんは、やはり「風船おじさん」です。風船おじさんこと鈴木嘉和さんは幼い頃、「風船をたくさん持てば飛べるはずだ!」と思いついて、そのまま大きくなっちゃったんですね。風船を身体障害者の移動手段にするという、突拍子もない夢を描いていたらしい。その鈴木さんは92年11月23日(当時52歳)、風船付きゴンドラ「ファンタジー号」に乗って飛び立ったまま行方不明になったんです。覚えている方は、しょ?がないおじさんだなぁ?と思った人も多いはず。ヒノキ風呂を改造したファンタジー号で、滋賀県近江八幡市の琵琶湖湖畔から米ネバダ州にある鳴き砂の保護を訴えるため太平洋横断を目指したのだ。
 これらの変なおじさんの創造の冒険心を私も受け継ぎたいと思っているんです。私自身も変なおじさんになるため修行中であります。そして、忘れちゃいけないもう一人の変なおじさん星野人史。このおじさんも吉田としては見逃せない!吉田が珊瑚舎に関わり続けている本当の理由は、星野のオッサンを観察するためなのじゃ?!


 学校の役割      その41

 開校して丸5年が経ちました。皆さんのご支援のおかげです。心から感謝しています。ありがとうございます。  

 「巧まざる変容が生れる場」、珊瑚舎スコーレが求めているものです。
 ヒトはつくづく面白い生物だと思います。3月のうりづん庭の「生徒が作る授業」で進化論が取り上げられました。ヒトはどうしてヒトになったのかを生徒は考えました。グループに分かれそれぞれの論を発表しました。そのうちの一つ「水泳論」は「面白い、本にできるよ」とゲッチョからお墨付きをもらいました。その話を聞きつけた僕はすぐその気になる方で、一年計画で本にしたいと考えていますが、生徒次第で、彼らはもう他に興味が移っているかもしれません。それにしても、ヒトはどうしてヒトになったかなんてことをヒトが考えるのだから面白いです。
 アフリカにツチブタという生き物が棲んでいますが、ブタではありません。ぼくはこの変なヤツが好きで、ツチブタグッズを捜しているんですがなかなか出くわしません。おかしな生き物ですが、ツチブタはオレはなぜオレになったかなかなんてことはおそらく考えていないでしょう。そんなヒマはないはずです。他の生き物連中にしてもそんなヒマないはずで、摂食と繁殖のために昼夜分かたず時間を使っているはずです。おそらく、ヒトだけがヒトはなぜヒトになったのかなどと自問自答し、時に屈託した眼差しで自分を鏡に映したりするのでしょう。
 珊瑚舎スコーレのスコーレは、現在は北欧で学校という意味に使われていますが、もとはギリシャ語で暇とか余暇のことです。最近、なんとかスコーレと名付けられた保養施設などが出来ていますが、スコーレは余暇を楽しむ所という意味です。その暇とか余暇がやがて学校という意味ももつようになります。面白いです。学校は保養施設とはまた別の暇を楽しむ所なのです。
 ヒトは生き物の分類ではホモ=サピエンスと言われていますが、ヒマを手に入れたことに重点を置くと、ホイジンガーが言ったホモ=ルーデンスという捉え方が気に入っています。ルーデンスは遊びです。実利から離れた時間です。僕流にとんとんと解釈して、この時間が芸術や学問や哲学や宗教を生み、自分とそのまわりに広がる存在や現象に向かい合う時間を作ってしまったのです。もうツチブタの自由を手に入れることは出来なくなりましたが、かわりに自分をいろいろディザインする自由を手に入れました。
 学校はそこに集うものがなりたい自分を模索するための場なのだと思います。だから、そういうところに権力や実利的な力が手を突っ込むと、ろくなことにならなくなるわけです。それはここではともかく、摂食と繁殖から大脳が解放され、または自由になって出来た暇という時間を、ヒトが進化の途上で手にした宝物にしたいと思っています。その手立ての一つが学校です。鳥が止まり木に止まるように、ヒトの止まり木になるような場と時間がスコーレという言葉の中身です。
 珊瑚舎スコーレは生徒ひとりひとりが持つ「もっとかっこいい自分になりたい」という人間としての欲求、とりわけ思春期の人間が持つ強い欲求に応えられるような場でありたいと思っています。「巧まざる変容」とは、それぞれの生徒が自分の成長にとって必要な場として珊瑚舎スコーレを捉えた時、その場は自律的な活動を展開しはじめ、僕たちは当然のこと、本人自身も予想しなかった巧まざる力学が働き、「人間の変容」というドラマが生れることです。
 学校にとって大切なことはこの巧まざること、言い換えれば教育的配慮ということと無縁なこと、つまりヒトの自然、「自ずから然り」ということを知っておくことなのだと思います。(ほ)