>学校をつくろう!

  第39号より
「マチカンティー」

◎珊瑚舎スコーレの夜間中学校は4月17日に開校しました。現在20名の生徒が在籍し毎日夕方の6時30分から9時30分まで各教科を学んでいます。
 今号から夜間中学校を紹介する"マチカンティー (待ち兼ねていたよ)」が始まります。"マチカンティー"は「7歳の時から自分が通う学校がいつか出来ると思って、60年待ちました。夢は実現するものですね」と話してくれた生徒の言葉からもらいました。
 ここ何回かは生徒の皆さんに夜間中学校で学ぼうと思った気持ちや思いなどを語ってもらいます。(聞き書きは事務局の遠藤が担当します)

   私のお父さんとお母さんは南洋で亡くなりました。お父さんは戦死し、お母さんは弟を産んだ後で亡くなりました。その時私は5歳でした。産まれたばかりの弟と2人船に乗り、沖縄に帰ってきました。叔父さんが港に迎えに出てくれていました。叔父さんとはこの時初めて会いました。そしてこの叔父さんに弟と2人面倒をみてもらうことになります。叔父さんが結婚して、子供が2人出来てからは4人兄弟として育てられました。
 5歳のときから弟の子守りをし、その後は甥もふくめて3人の子供たちの世話をしました。同じ子供同士ですから大変でした。何回か学校に入学するようにと書類が来て、行きたいと強く思いましたが「だれがこの子達の面倒を見るの?あんただよー」と言われ、仕事で忙しい叔父さんを見ていると口答えが出来ませんでした。一番年上で女だったからすべての面倒は私がみることになったのです。それでも勉強がしたくて、弟たちの小学1年、2年の教科書を借りて、ひらがな・漢字を自分で拾って習いましたが、出来きれませんでした。
 17歳のとき、自由になりたくて家を出て働き出しました。でも、字の読み書きが出来ず、うまくいきませんでした。その後25歳でお父さんの叔母さん宅に引き取られ、家事を引き受けました。家事のことなら人に負けない自信があります。結婚する時も、最初は学校に行っていないことでバカにされないかねぇとイヤイヤでした。でも、そんなことは全くなくマチマチ(待ち待ち)していた2人の子供にも恵まれました。学校に行っていないので仕事を見つけるのは大変でした。ビルの掃除や保育園の手伝いなどをして働いてきました。
 私は新聞も読めません。娘がこの学校のことを新聞で知り「行ってみるかねぇ。まだ間に合うかもよ。行くなら今すぐ連れて行くよ」と言われて、焦ってこっちに来て入学手続きをしました。今は毎日楽しいです。漢字はまだ書ききれないので、算数が好きです。計算が合っていると、私にも出来る!と嬉しくなります。教えてもらって出来ても、それは身に付いたことにならないので〇は付けず、△か×にします。自分で答えを出しきれた時が本当に身に付いたはずと思っています。(U・Mさん談)

 夜間中学を知ったのは平成10年6月にNHKのラジオで見城先生(東京都江東区文化中学の夜間学級の元教員)のことが放送されたからです。こういう学校っていいなぁと思いました。それが去年の12月に「こんばんは」の映画上映があると新聞で知り、見城先生に手紙を書こうと住所を問い合わせました。その過程で映画センターの方から珊瑚舎スコーレが夜間中学を始めると聞き、申し込みました。
 戦争中は熊本に疎開していました。ずっと後になって母から、実は対馬丸(米軍潜水艇に撃沈された学童疎開船。1661人の乗客のうち、生存者わずか156人という惨事です)に乗るはずだったが、あまりの混雑振りに次の船にしたと聞かされびっくりしました。戦後すぐに沖縄に戻り、ヤンバル(沖縄の北部)に逃げていた父に再会しました。もし、父が南部(沖縄戦の激戦地)に逃げていたら会えなかったでしょう。でも、父は戦争にもいけないほど身体が弱かったため、無理がたたりまもなく亡くなりました。母は4人の子供を抱えて苦労しました。
 私は小学5年生の時、校庭で事故に会ったのです。フットボールをしていた生徒4〜5人がボールを追いかけて、遊んでいた私の上に倒れこんでしまったのです。痛かったのですが、いわゆるケガで血が出るといった状態ではなかったので、先生に痛みを訴えることもせず黙って帰りました。それ以来股関節がダメになり、片足を引きずってしか歩けなくなってしまいました。金も無いし保険制度もない時代です。まして、事故の責任とか保障という考えもありませんでした。痛むとギブスをしていました。
 小学校はまだなんとか通えたのですが、中学校は遠くて通いきれません。叔母さんの家の子守りをしたり、縫い物を教わったりしました。母は歩けないなら学校に行かなくてもいい、手に職を持ったらいいさぁという考えでした。従姉妹を通して、母が女は学校なんか行かんでもいいと思っていることを知りショックでした。ただ、一つ違いの兄が母に学校に行かせなさいと意見してくれましたが、その時の私は兄の真意を察しきれなかったのです。私自身は痛くて歩けなかったので仕方ないことと思っていました。なにもかも諦めていたのです。
 しかし、歳はとっても勉強したい、基礎を学びたいという思いがうずいていました。どこかごまかしごまかし生きているような気分なのです。会話などでつまずいてしまうことがあります。いきなり知らない四字熟語で返されると絶句し、分かったふりをしますが苦しくなります。また、心の中に少女のままの気持ち(成長していない部分)が一杯つまっているのを感じるのです。
 5月は月桃の花の季節です。この花だけは戦争が終わってなにもない瓦礫の藪の中でも変わらず咲いていました。入学式のみんなの喜んでいる姿、弾んだ声がこの花と重なりました。花は小さいけれど純白とピンクで、世間ずれしていない少女のようです。歩きながら月桃の花を見ると夜間中学のみんなに似ているねぇ、同じ想いねぇーと思います。
 もう少しであっち側に行く歳なんでしょうが、でも学びたいですね。自分がきちんと学んだらあの世の母に報告できます。今は幸せですよ。やりたかったことをやれているんです。頭に入るには時間がかかりますが、先生の教えたい気持ちが分かっているので、精一杯吸収しようとしています。 (U.N.さん談)


学校の役割      その31

 夜間中学校の授業が始まって1ヵ月半が経ちました。月曜日から金曜日の18:30〜21:30までの3時間、周期集中方式の時間割で前期は算数・数学、日本語(国語)、英語、保健・体育、音楽の各教科とシンカー会議(ロングホームルーム)が組まれています。後期からは理科、社会、美術、技術・家庭が新たに組まれます。
 生徒の年齢は70歳前後の方がほとんどですが、40代の方や韓国とタイの方も在籍しています。学歴は、小学校にもほとんど行っていない方、中学校を卒業している方、高校を中退した方がいますが、ほとんどの方はいろいろな事情から小学校、中学校を卒業できなかった方々です。
 珊瑚舎は授業を「思索と交流と表現の場」として捉え、その場に参加しなくては体験できない知的、芸術的自己実現の場として参加者自らが作っていくものと考えています。教員はその手助けをするのが仕事の中心になります。珊瑚舎の現在の授業が全てそういうものになっているかと言えば、イエスと断言できないのが現実ですが、そういう場にしようとしていることは確かなことだと思っています。
 夜間中学校の授業も、もちろんこれと同じ考え方で捉えています。珊瑚舎の「学校をつくろう!」という呼びかけは「授業をつくろう!」ということとほぼ同義です。夜間中学校の「算数・数学」の授業が現在直面していることは、珊瑚舎の授業に対する考え方を具体的に考え、授業に対する考え方が試されていると思っています。
 夜間中学校の運営は30数名のボランティアの方々に支えられています。算数・数学の授業は4名の授業ボランティアが交代で授業を担当しています。また、数名の授業サポーターが毎時間、サブティーチャーとして授業に参加し生徒のサポートをしています。掛け算の九九があやふやだったり、プリントの漢字が読めなかったり、「cm」が何を意味しているのかわからないこともあります。授業を受持つ方は、いわゆる学力差に悩まされます。授業内容が未消化のままの生徒がいます。そうして、とうとう補講をすることになりました。その補講に10名ほどの生徒が参加しています。夜間中学校の在籍者は20名ですから半数の生徒が補講に参加しているわけです。珊瑚舎の授業に対する考え方からすれば、補講は病気などで授業に参加できなかったものに対して行われるものです。授業に参加している生徒に対して補講をしなければならないということは、授業に原因があるということになります。
 大きな原因は授業の目的が「中学校卒業程度認定試験」に合格することに置かれていたことです。ある偏差値をクリアーすることが目的の受験のための授業と同じです。中学校卒業程度認定試験というのは文科省が毎年11月に実施しているもので、中学校卒業資格がない学齢期を過ぎた者に対して行われる試験です。中卒資格にはなりませんが、高校受験資格になります。大学検定の中学校版です。合格を希望するものに対しては何らかのサポートをしますが、この認定試験に生徒が合格することを夜間中学校は開設の目的にはしていません。たとえ生徒全員がこの試験に合格することを目標にしていても珊瑚舎の授業の目的にはなりません。ボランティアの方との間に誤解があったわけです。
 では、どういう「算数・数学」の授業が考えられるのか。毎日授業に参加している生徒の半数が補講を必要とするならば、まず、補講の内容を時間割に組まれている授業でやってみることです。しかし、生徒の間には学力差がありますから、補講を必要としなかった生徒もいます。その生徒が授業に退屈するような時間になってはならないわけです。ボランティアの方には「場」を作るという観点で授業を考えて欲しいという内容のことを話しました。次回の「学校を作ろう!通信」にはどのような授業が作られたのかを報告できると思います。(ほ)