>学校をつくろう!

  第36号より
学校の役割   その29

 珊瑚舎スコーレの生徒と学生の二人がジャンベとギターでライブ出演するというので、久しぶりにライブハウスに出掛けました。 1番目のバンドの最初の曲を聴いて、確か「ハッピネス」といったと思いますが、それ以後はその曲を聴いて感じたことをぽつりぽつり考えながらライブを楽しみました(時間の都合で2番目に出演した生徒たちの演奏を聴いてライブハウスを出ました)。そのぽつりぽつりと考えたまとまりのないことを書いてみようと思います。 「ハッピネス」という曲で感じたのは人間の持つ暴力性とか破壊性ということについてです。ボーカルのウチナンチュの青年が東京に出稼ぎ(彼のことば)に行っていた頃作った曲だそうです。大都会での生活で感じた疎外感を歌ったものです。赤信号を無視してそのまま突き進めとか電車の座席に大きく足を組んで乱暴に座ってみるとか、よくあるタイプの詞なのですが、構えのない誠実な歌いぶりに好感を持ちました。 疎外感や孤独感に浸かりすぎているとあの井伏鱒二の「山椒魚」がそうであったように「人はよくない性質を帯びて来る」ことがあります。 説明しがたい、あるいはなんともしがたい、否定的状況から生まれる混沌とした疎外感は、人が時々尾テイ骨の存在を意識するように、人の持つ暴力性とか破壊性に具体的な形を与えるようなことになります。人の歴史とひとりの人間の成長はこの暴力性や破壊性を別の性格のものへ変容させるための過程ではないかと思うことがありますが、最近の状況は尾テイ骨から尾骨がはえ始めているのではないかと思えるほどです。  人間という種を表す言葉にはいろいろありますが、 たとえば「ホモ=サピエンス」(知恵のある人)はよく聞きますが、他にも「ホモ=ファーベル」(道具を使ってものを作る人)、とか「ホモ=ロークエンス」(言葉を使う人)などと言う言い方があります。ホイジンガ−は「ホモ=ルーデンス」(遊ぶ人)という言い方をしました。人の遊戯性に目を向けた捉え方です。捕食と繁殖の生態とは異質の時間を過ごす生きものだということでしょう。  ぼくはこの遊戯性が暴力性や破壊性を止揚するものではないかと感じています。それは、言葉の獲得、と無縁ではないでしょう。そう考えると「ホモ=ロークエンス」という捉え方が、ヒト科の生き物である僕自身を眺めるときに腑に落ちる言い方だと感じます。 いや、そういうものではなく「ホモ=ロークエンス」と「ホモ=ファーベル」と「ホモ=ルーデンス」の三つの性質が分かちがたいバランスを保ちながら「ホモ=サピエンス」としての生態を作り出しているなどとも考えますが、すぐにそうかな?とも思います。いずれにしても実利的な動機から無縁な学問とか芸術とか、所謂飯の種にならないものはヒトがヒトであるためには大切なことではないかなどと考えます。 「珊瑚舎スコーレ」の「スコーレ」の語源はギリシャ語で、暇とか余暇のことです。スクールの語源だそうです。今は北欧で使われている言い方です。人が集い学び、交流する場のことだそうです。最近は保養施設などにもスコーレという言葉が使われていて、そのうち珊瑚舎スコーレは沖縄にあるクワハウスではないかと思われるかもしれません。 学校というものは日常の実利的な価値から離れた暇とか余暇とか名づけられた時間に、ヒトの遊戯性を具体化するための技(知識や技術)と意欲(思索する意思)を身につける場の一つとしてあるのではないかとも考えました。 舞台では珊瑚舎スコーレの二人が演奏をはじめていました。ぎこちなく、不器用な自分を丁寧に丁寧になぞりながら輪郭をつけようとしているような曲でした。(ほ)

「気になる言葉ボクシング」
高等部3年 手塚木咲

 『うないフェスティバル』というのは、那覇女性センターが主催するイベントである。"うない"とはウチナー口で姉妹のことだ。日頃様々な場所で活動している市民運動やNPO団体などの展示やワークショップ、出店を兼ねた外界への発信の場である。今回この祭りに珊瑚舎スコーレも参加した。  夏休みを前にした珊瑚舎に『うないフェスティバル』(略して「うない」)の案内が届いた。実際の開催日は後期の中ごろの11月9日だが、参加申込も同封されていた。参加しようかしまいか、まずはやはり「がじゅまる会議」(生徒・学生全員が参加する会議)である。外界への発信は大切にしようというわけで参加が決まった。案はいろいろ出たが、内容が決まらないままに、長い夏休みに入ってしまった。まぁ、だいぶ先のことだしと思っていたのだ。夏休みが終わり専門部に後期生が入学してきた直後、「うない」の本部から具体的な中味を知らせるよう連絡が入り、「なにやるのー」とひたすら話し合いを開く。  「詩のボクシング」と「気になる言葉をめぐって討論する」の二本柱が立ち上がり、さらにこの二つを掛け合わせるとう案が出てきた。新しいアイデアに盛り上がる頃には開催日まであと3週間あまりとなっていた。しかし、私達は掛け合わせるというひらめきにやる気満々だったので、そこからは早かった。かくして、ひらめきの賜物は「気になる言葉ボクシング」と名付けられ、私達の計画をころころ転がっていったのである。  私達は「集まった人たちと何らかの形で交流したいね」と話していたので、まず"会場参加型"を大前提に考えていた。言葉でボクシングをするのは「詩」の場合と同様だが、これは表現の方法に制限を設けないとした。だが、すべて即興で読まなければならない。つまり、会場に集まった人たちに「最近気になっている言葉」を記入してもらい、その一語一語が一試合ずつのお題になるということだ。もちろん選手も当日会場から募る。制限時間など細かいルールや試合方法などは割と早いうちに決まったが、一番気をもんだのは会自体の進め方だった。選手としてマイクの前に立たないとお題も分からないので、相当緊張するだろう。試合の前に会場の緊張をほぐすゲームをしたらどうか。とんでもないお題が出たらどうするか。選手にお題の拒否権=パスを認めるかどうか。いろんな状況を想定し、その対策を幾つも考えた。なにしろ初めての試みの上、全試合即興という要素も加えてしまったので、当日にならないと何が起こるかなんて誰にも分からないのだ。  校内で二、三回試し試合を行いながら会のコツをだいたい掴み、迎えた11月9日。外部からの参加者は少なかったものの、なかなか面白いものになった。お題となった「気になる言葉」を書いてくれた人にその理由をインタビュウする時間を設けた事や、一試合三人とした意図は充分に発揮されたと思う。お題になった言葉の一部はハーモニー・ラブラブ・〜的には・涙目などだった。  普段の日常とは違う外部の人の意見や考え方に出逢う機会であった。一つのお題=言葉に対し三者三様の表現がある。それは、その個人の人間性に一歩近づくことのように思えた。表現は何かに繋がってゆくものである。人が感じることと想像することを駆使した時間であった。と私は思う。