>学校をつくろう!

  第35号より
学校の役割   その28

夏休みを利用してアメリカにいってきました。アトランタとシアトルに友人が住んでいて、彼らをたよって出掛けたわけですが、文字通り彼らにおんぶにだっこの旅でした。  アトランタでMartin Luther King Jr.キング牧師の生家を訪ねました。一帯は歴史的価値のある地域に指定されています。あの界隈からアメリカの公民権運動は出発したのです。雑誌やテレビのニュースなどで報じられる彼の姿と言葉は魅力的で、高校生の僕の心を動かすに十分でした。40年後、まさか生家の玄関に立つとは思ってもみませんでした。"I have a dream." 彼の有名なスピーチが持つ熱を再び感じたような気がしました。  生家に行くまでの間、黒人が住む地域を歩きました。みすぼらしいアパートの窓という窓から顔を出してこちらを見ている彼らの視線には生気がありませんでした。タバコをせびって追いかけてきた女性の捨て台詞(意味はよく判りませんでした)も僕を複雑な気持ちにさせました。  小学生の頃「砂漠は生きている」という映画を観て以来、いつかそこに行ってみたいと思っていました。今回、念願がかない、友人夫妻の案内でアリゾナの砂漠に行きました。 ネイティブ・アメリカン(「インディアン」の方がなじみがありますが、差別的な言葉ということになっています)のアパッチ族の指導者だった「ジェロニモ」が最後に騎兵隊と戦ったフォート・ボウイーを訪ねてみました。かつてはちょっとした町があったそうで遺構や案内板が所々にありました(ラッキーなことにガラガラ蛇に遭遇し、尻尾を振るわせて威嚇するあの音を生で聞けました)。当時(19世紀半ば)、そこで暮らしていた白人の墓地も残されていました。白い石の墓に刻まれた簡単な墓誌銘には"Killed by Indian"と刻まれたものがいくつもあり、4,5歳の子どもの墓もありました。 "Killed by White"という逆も当然ありうるわけで、侵略者(アパッチ族からみた白人)と略奪者(白人からみたアパッチ族、アリゾナのアパッチ族は略奪を生業の一部にしていましたから他の部族も彼らを略奪者とみていたところがあります)はそれぞれの自由と正義のために30年以上戦い続けたそうです。こういう戦いが各地であったわけです。南北戦争、奴隷解放令など、リンカーン大統領が活躍した時代と重なります(20代のリンカーンもインディアンとの戦いに義勇兵として志願しています)。 結果は現在のアメリカを見れば分かることです。各地にインディアンの居住区があります。貧困とドラッグやアル中、心を病む人が多いと聞いています。 シアトルの友人夫妻に案内してもらい、高速などを使って4時間あまり、クイリュート族の居住地を訪ねました。彼らは今のワシントン州にあたる地域で漁業を生業にして広く暮らしていました。白人との何度かの戦いの後、19世紀の半ば、オリンピック半島の西北端の現在の居住地に追いやられました。貧困から脱出するため、州政府は彼らにカジノを経営することを認め、その利益で居住地の中にコテッジを建て、本来の生業の漁業とともに観光で生きようとしています。 クイリュート・スクール(小学生〜高校生まで約70名ほどの生徒が通っています)を訪ねました。校長が出迎えてくれました。体育館に案内されました。毎朝、全員が集まりクイリュート語を話す中年の女性(話せる人は彼女を入れて3人です)の指導でクイリュート語に親しむ場を作っているそうです。小学校低学年の生徒たちが鯨を呼ぶ踊りと梟の踊りを披露してくれました。  教室を案内してくれた教頭がここの子ども達の親はほとんどがドラッグかアル中で、そうでない家庭の子どもは高校生になると別の地域の学校に通うようになると言っていました。 イラクに侵攻したアメリカの現状です。(ほ)

授業について
高等部3年  岩間幾何

授業とはいったいなんだろうか?少し授業について私なりに考えてみたいと思う。私は、小中学校時代、授業というものが嫌いだった。理由は、授業の中に興味を抱くものを見つけられなかったからだと思う。この時間は私にとって無意味なものであったし、私一人いなくても何の支障もなく進行してゆく授業に孤独感を覚えた。私は、もう10年以上もの時間を授業に費やしているが、印象深い授業をいくつか覚えているだけで、ほとんどの授業は全く記憶がない。本当は教員が十人十色である分だけ授業も一つ一つ違うはずである。しかし、私の受けた授業は皆一方的で面白みに欠けていた。 このような授業には、教える立場の人から教えられる立場の人へ知識や情報を一方的に伝えるという決まった関係しか存在しない。極端なことを言えば、教える人さえいれば授業が成り立つのである。講義や講演など、知識や情報を欲する場合は、この授業形態が適切である。しかし、これとは全く反対の教える立場、教えられる立場の間に交流があり、相互関係が成り立つ授業というものもあるはずである。私はこういう形の授業に魅力を感じる。ではこのような授業には何が必要だろうか。  まず、教える人が、全てを計画通りに進めてゆくという概念を少し変えてみてはどうだろうか。素朴な疑問や質問を切り捨てずに立ち止まり一緒に考えること。授業という場が教員にも常に刺激的なものであって良いはずである。教えられる側も、自己選択をしてこの場に居ることを自覚する必要ある。そういうところから責任感や積極性が生れてくると思う。つまり、より良く自分が居られる場であるかどうかを常に考えることで授業を変えてゆく事ができる。参加したものが互いに触発し合う関係であることが大切である。授業というのは、教員が一人で作るものでもなく、生徒、教員が互いに作るものである。他人の意見を聞き、納得したり何かを発見したりする。このような、何かを感じ得ることのできる場を互いに作り上げてゆけば授業は楽しいものになるのではないだろうか。  月日が経つのは早い。私が、珊瑚舎スコーレに入学して2年と半年が過ぎた。当初、15人弱しか居なかった生徒も、現在では30人を超え倍以上になった。年齢も12才から60歳までとバラバラである。入った理由も経歴も性格も趣味も皆違う。この中で何か一つの事をやろうとすると大変難しいが、楽しくしようと思えばいくらでもできるし、手を抜こうと思えばいつでも抜ける。傍観者になるのは簡単なのだ。自分の考えの殻のなかに閉じこもり、傍観しているよりも、常に柔軟に他人の話しを聞くことの方が難しい。しかし、自分とは全く違う人と出会ったとき、自分に新しい風が吹く。  授業も同じであると思う。ただ、偶然に集まった人達で場を作る。好きな人も、よく知らない人も、面白い人も、同じ場に居て、関係を作ってゆく。一つ問題提起をしたら、百通りの意見が出てくる。ぶつかって、納得したりさせられたりしながら作ってゆくもののなかには、新しい発見がいっぱいあるし、広がってゆくことができる。私が考える授業とは、参加した者たちで作る、いつでも新たな発見が待ちうけている未開の場なのだ。

※「授業について」は夏休み前に開かれた授業を話題にした「ゆんたく会議」(生徒、学生、講師が参加して珊瑚舎スコーレについて検討する場です)とその後の資料作り、講師の方々が書いてくれたアンケートなど、授業をめぐる一連の活動をもとに書かれたものです。

まにまに祭
高等部1年   与儀 周

 まにまに祭は、学年が違う生徒同士でどんな授業をしているのか見合いたい、と言う意見から6月頃に「やろう」と企画された学習発表会です。本番は夏休みに入る前の8月1日に決まり、当初は、どの学年も関わっているエイサー、舞踊、三線だけしかやらないと言う予定でした。けれどもガジュマル会議(生徒の話し合いの場)をやっていくにつれて、まにまに祭の内容がじょじょに増えていき、いつの間にか学年ごとに発表しようと言う事になりました。  7月中旬ぐらいになると、学年ごとに発表するものも決まって、高等部1年と2年は文章講座で創った詩を発表することになりました。他の学年も、まにまに祭にむけて練習を始めました。ところが、1年部と2年部は詩の発表をすると決まったところまでは良かったのですが、練習をまったくしていなかったので、まにまに祭当日になってから2年部は中止、1年部はギリギリ練習をしてなんとか発表することが出来ました。 まにまに祭本番、私はマサオ君と司会をすることになっていたのですが、これもまったくその打ち合わせが出来ないまま、いきなり本番だったのであせっていました。2番目のプログラム、3年部による八重山舞踊の発表の着替えがなかなか終らなくて、間を持たせるために場を盛り上げろという声がかかったので、アドリブでなぜか漫才をやることに…(うけませんでした)。そうこうしているうちに3年部の着替えが終りました。舞踊は八重山の代表的な舞踊と言われる「鷲の鳥節」「鳩間節」でした。ゆっくりで静かな踊りだったのですが、3人の息がぴったり合っていてかっこいいと思いました。自分達の詩の発表もギリギリの練習のわりには、なかなか良い出来だったと思います。  司会をすることで緊張していたせいか、やった内容をほとんど覚えていないのですが、珊瑚舎スコーレでは珍しく時間をちょっとオーバーしたくらいで終りました。  まにまに祭後の軽食会も、終りの時間に追われなかったのであせることなく、畑でとれた紅芋や野菜、差し入れをしてもらったケーキを食べて、楽しく、おだやかな感じで終る事が出来ました。  来年はもっと良くしたいです。