>学校をつくろう!

  第33号より
珊瑚舎スコーレ
第2回 春の学校 うりづん庭

1部 生徒による授業
高等部二年 河原 麻衣子
 うりづん庭で生徒による授業をやることになったのは、生徒の話し合いの場(がじゅまる会議)でホッシーの「生徒の授業なんてどう。面白いと思うよ」の一言だった。聞いた瞬間はあまり興味を持っていなかった私の横でまず伸ちゃんが手をあげた。そして私もつられるように手をあげた。研太にキッキも授業作りのメンバーに加わり、四人での準備が始まった。 最初の壁は「何の授業をするのか?」だった。いろいろな教科をあげてみるものの、なかなか決まらず「スコーレの生徒だからできる、私達の授業をやろう」と話がつき、文章講座をベースに、フランツ・カフカの『掟の門』を題材にすることにした。私達は放課後も集まり『掟の門』を読み込んでいく作業を繰り返し、感じたまま、思ったまま意見をだしあたった。研太は自分の意見を述べると満足し、人の意見を聞こうとするが実際には聞こえていないところがあったが、毎回目のつけどころが違い、みんなを驚かせてくれた。伸ちゃんは発言の最中にもかかわらず発言の内容を忘れる事しばしばだったが、一つの考えに固定されず、毎回発展した意見を聞かせてくれた。キッキはよく他人の意見にまきこまれたりしていたが、作品の段階を踏んで話をすすめてくれたお陰で白熱しすぎて脱線しても修正することができた。私はみんなの意見に圧倒されながらもプリントの余白にびっしりと自分の意見、他人の意見を書き込んだ。 この時より個性がぶつかり合い、眠気がふっとぶほどのファーストフードでの時間を知らない。(夜の9時頃から明け方まで何回か粘って、お店の人に顔を覚えられてしまった。)四人での話し合いの場はとても白熱し、楽しく大切な時間となった。当日思ったとおりに授業が進まなくても、今までの時間は決して無駄にはならないと心底思えた瞬間が何度もあった。 授業当日、進行役の研太は緊張していて、伸ちゃん、キッキもそれなりに興奮していた。私も何か落ち着かずにウロウロしていた。ただ、その緊張も参加した人たちがカフカの『掟の門』を初見にもかかわらず思い思いの意見を述べてくれたお陰で、少し和らぎホットできた。沈黙が一番怖かったのだ。なにより、二頁しかない文章にもかかわらず、こんなにも頭が混乱する作品を共有することができてとても嬉しかった。 授業作りの大変さを身をもって体験できた。「生徒による授業に参加して本当によかった」という声が多く嬉しかったが、もう一度?と聞かれたら素直にうなずける自信はない。でもとても大切で必要な時間を過ごすことができたのは確かだ。

        『掟の門』を読んで

  高等部3年 手塚 木咲
 カフカのこの作品はとても難しかった。私は未だに数々の疑問を解決出来ずにいる。しかし、この「掟の門」を読むことにより、一つの言葉を考えるようになった。それは『欲』ということだ。普通この言葉は私たちに良い印象をもたらさない。文中でもそのように使われている。すると私たちは『欲』の全てを否だと思い込んでしまう。  違うのだ。『欲』は生きるための源であって、とどめなく生じてくる『欲』を否定するのは難しい。問題なのは『欲』の使い方、捉え方なのだと思う。私欲ばかりに目を光らせたり、目先の欲に捕われて周りが見えなくなるのは問題だが、『欲』そのものを持ってはいけないのではない。  「掟の門」は私たち一人一人の『欲』を映し出す鏡なのだと思う。掟の門前に立った時、人々の『欲』は動き出すのだ。

            高等部3年 広田 伸子
 私達は知らず知らずに自分で自分の行動を制限したり、禁止されているわけでもないのに「それが掟なのだ」と勝手に思い込んでしまっていることがよくある。それはまさに、この小説にでてくる男が陥っている状態と全く同じだと言える。  男は初めから「入れてくれ」と門番に許可を求め、門番の許可がないと門に入れないと信じ込み、許可がおりるまで門の前で待ち続ける。これは男が初めから"門に入ってはいけない"ということを気づかずに自分で受け入れている証拠ではないか。  多分、私達が歩んでいく先々で現われる門にしろ、男が入れなかった門にしろ、大切なのは門がいつでも開かれているということだ。入ろうと思えばいつでも入れる。門自体は私達を止めたりしない。止めるのは番人とか社会とか親とかしきたりという、いわゆる周りである。それをそのままこの男のように受けとめるか、それとも違ったように受けとめるか。どっちにしろ、門は開いているのだ。  「掟」は自分の頭の中にしか存在しない。「掟」を作るのも、「掟」に縛られるのもすべて自分なのだ。そして、その自分で作りだした「掟」を人はしばしば周りが作りだしたものだと勘違いする。

専門部 真津 研太
このカフカが書いた『掟の門』を読み、仲間と話すたび新たな解釈が出てきて非常に混乱した。僕らの作った授業が終わってしばらく経った今でもそれは一つには纏まってはいない。でも心の中のモヤモヤ(纏まり切れない思い)と2週間ぐらい格闘した中で、確かにカフカから貰った心がある。誰もが新たな一歩を歩もうとすると、必ず反対する人、モノが現れる。『掟の門(戸口)と門番』は『田舎から出てきた一人の男』の心の中に在った都会(新たな物)への恐怖心や迷いが具体化した物ではないかと思っている。『男』の様に立ち止まるな、怯まずに頑張れと言っているカフカの励ましの声が聞こえた気がした。つまり『男』は『門』の前にやってきた時点で入る事を諦めていた。でなければ、『門番』にかまわず入らなければならなかったんだと思う。 大変だった授業作りが終わり苦痛でしかなっかたモヤモヤが今快感に変わる不思議な感覚を覚えている。とにかく僕にとってカフカとの出会い、そして授業作りに参加したことは、新たな小さな種が確かに植えられたような気がする。

3部  「ザ・とうろんかい」
高等部二年 金 そな・西原久美子
 うりづん庭で討論会を開くことになり「子供の権利」をテーマに準備を始めた。というのは"子供に権利"があるという事実を大人はおろか子供ですら知らないことが多い。この討論会を通して、そのことを伝えようと考えた。 3月16日の当日をひかえて私たち討論会のメンバーは焦っていた。自分たちの「子供の権利」に対する考えがまだまだ固まっておらず、意見を交し合うたびにあちらこちらと揺れてしまう。それでも各人譲れない考えを持っている。それは自分の過去の経験や今のありかたと照らし合わせて築いてきたものだ。それを大勢の人の前ではっきりと言えるだろうか。当日の進行予定はダイヤモンドランキングをグループごとに作り、デスカッションをしていこうという話でまとまった。 ダイヤモンドランキングとは私たちが数ある権利の中から選んだ9つの権利をそれぞれ一番大切だと思う順にランキングをつけ、菱形(ダイヤモンド)の図形に並べるものです。私たちが選んだ権利は"差別はダメ(2条)・やっぱり遊ばなくちゃ(32条)・いろんな文化を認め合おう(30条)・生まれた時から名前と国籍があるんだ(7条)・安心して暮らす権利(27条)・信じること、思うことの自由(14条)・子供は大人のおもちゃじゃない(34条)・思ったことを言える権利(12条)会いたい時にはいつでも親に会えるんだ(9条)"です。この中から、1位を一つ、2位を二つというように選んでいくことで自分の考えを意識化することができます。 みなさんだったらどれを1位にしますか。 そして迎えた討論会当日。参加者は30人弱。みんな私たちの心配とはうらはらにどんどん討論を進めてくれる。メンバーだけで繰り返していた討論には無かった新しい意見や感情、視点など驚くところがたくさんあった。あるチームのランクング1位は「差別はダメ」というもの。理由を聞いてみると、それが根本にあってこそ他の権利が成り立つと言う。また別のチームは「安心して暮らす権利」には全てが含まれるとして1位にもってきていた。でも、いろんな人の言葉を受けとめて話を進めていくにつれて、どれが大事とか決められないようという声があちこちから聞こえてきた。最後には権利カードを丸く円形に並べて、どれも大事!!というグループもでてきた。結局結論は出なかったが、とっても意義のある時間を共有できたと思う。 参加者の感想を紹介します。
Aさん・・・・・あっという間に時間が過ぎたと思います。それは分かっているようできちんと認識していなかった身近な問題を皆で考えたからだと思います。いろいろ考える、他人の考えを聞けるきっかけを作っていただいた事を感謝します。一つの権利ででもこんなに見解が違うこと、話し合うことの大切さを再認識しました。
Bさん・・・・・ホッシーの無知を知ることの話とみんなの考えを聞いて考えたのは、知ることは大事、でも知るためには相手のことをちゃんと知ろうとする気持ちがもっとも大切だと思った。相手の意見・気持ちを知り、相手を尊重する。そして自分の気持ちを大事にすることも忘れちゃいけない。つまり、相手と私のどっちかが正しいかではなく、互いの意見をもっといいものにするために相手を知ることではないかと思う。どこかで折れても、ここは譲れないと思うところは率直に出し合うことが"場をつくる"ことになるのだろう。

学校の役割   その26
政府が進める構造改革の一環としてさまざまな特区が作られましたが、那覇市は教育特区として認可され、4月から小学校全学年で英語を必修科目にしました。国際化を担う国際都市としての那覇市にふさわしい人材の育成を考えた結果だそうです。全国でも那覇市だけの取り組みだそうで、知事も市長も誇らしげでした。ちなみに軍港移設問題で那覇市と手を取り合っている浦添市も申請したのですがこちらは認可されませんでした。 同じ教育特区として八王子市が認可されました。不登校の生徒・児童の学びの場をN.P.O.法人などの民間施設に委嘱することを内容とするものです。同じ教育特区でも那覇市と八王子市では結果としては月とスッポンほどの違いがあります。一言でいえば、生徒・児童の側に立っているかいないかの違いです。  沖縄のマスコミも教職員組合などの機関も今回の「教育特区・那覇市」がはからずも提起してしまった問題点を児童・生徒の立場にたった視点で論じる姿勢が欠如しています。知事も市長も選挙で選ばれたのですから誰のせいでもなく僕を含めた二十歳以上の大人のせいです。ヤマトゥもかなりのものだと思いますが沖縄はさらに重症です。学校が置かれた状況にそれはよく現れます。 那覇市の教職員組合は給食が民間業者に委託されることに対し街宣車を繰り出し、議員を動員し、野立看板(電信柱やガードレールに括りつけられている看板です)をたて反対しました。「子供たちの健康と命を守る」ためです。民間業者が作る給食は健康と命に害を及ぼすようなものなのかもしれません。そうかも知れません。民間業者の作る給食に限らず現在の沖縄の食生活は長寿とは無縁の短命食になっています。この問題は沖縄全体の食の問題として捉えなければならないことで、「子供たち」の健康や命だけの問題ではないのです。執行委員会で弁当が配られるとして、それが件の民間業者の作ったものだったとしたらブラックユーモアだなと、珊瑚舎の事務局に押し入ってくる街宣車からの言葉を聞いていました。「子供」や「命」という言葉が白々しいのです。組合員の権利を守るための運動の道具に使って欲しくない言葉だと思いました。 那覇市の教育特区にも同じようなことを感じます。児童・生徒はある目的のための手段・道具になってしまうのです。人材育成という言葉がその事を如実に物語っています。 児童・生徒は彼らの外側にある価値、たとえば国際都市・那覇にふさわしい市民を育成すること、そのためには小学校から英語を必修教科にしなければならないという、なんとも貧弱で危険な発想に付き合わなければならないのです。分かりやすくするために上の文章の言葉を入れ替えてみます。「神国・日本にふさわしい皇民を育成すること、そのためには小学校から修身を必修教科にしなければならない」となります。 神国・日本と国際都市・那覇、皇民と市民あるいは修身と英語を同列に扱うことに異論があるかもしれません。確かにそうかも知れませんが、ここで問題にしたいのは、学校という場が児童・生徒を主人公とした場として作られているかどうかと言うことなのです。神国・日本も国際都市・那覇も同じ発想で児童・生徒を捉え、学校をつくり、カリキュラム、教科を決めているのではないでしょうか。神国・日本のために児童・生徒がいる、国際都市・那覇のために児童・生徒がいるのです。 そうではなく、たとえば英語という教科は人が成長するための手助けとしてどういう役割が可能なのかと言うところから出発しなければならないと思うのです。準備もほとんどないままに、とって付けたような授業が始まってると聞きます。教員にとっても迷惑なことでしょうし、児童・生徒にはもっと迷惑な話でしょう。英語嫌い、学校嫌いの種を蒔く結果になるのだろうと思ってしまいます。  それだから、ゴマメの歯軋りかも知れませんが、珊瑚舎スコーレは種々の英会話講座を企画し実施していこうと思っています。(ほ)