台 湾 大 旅 行
報告記
珊瑚舎スコーレには修学旅行というものがありません。でも、前期の終わりに"旅期間"があります。旅とは日常性から離れたところに身をおいて、その土地・人そして自分と出会うことだと思います。去年は個人々の旅の時間でしたが、今年はココから一番近い外国・台湾を体で感じてみようと、団体の旅を試みました。
那覇の安謝港から船で22時間、基隆に着く。そこからが台湾の始まりだった。台湾初日から衝撃的だったのは、夜市。街中の到る処に廟(道教の建物)があり、怪しげな明かりの中参拝客はたえない。みんな何の目的でここに来て何を考えてマーツゥー媽祖(母の象徴)に祈っているのだろうか。私はこの像に手を合わすことも出きずに、ただそこに立っていた。
次の日からはバスに揺られ、北〜東〜西〜南へのちょっと欲張ったスケジュール。昼ごはんは通訳兼バスの運転手を務めてくれたカー柯さんお勧めのボリュームたっぷりの台湾の家庭料理を味わい、夜は夜市で自分たちが食べたいものや台湾旅ならではの珍味を探す楽しい旅だった。
3日目に、台湾ってこんなに大きかったんだ、ふっとそう感じたトキに、この旅はいろんな意味で下見なのだと想った。台湾は、日本に統治された歴史をもっている。しかし、出逢った日本語を話せる台湾の人々はみんな親切にしてくれて、日本語を話したがった。台湾の人達や私達にとって大事なのは、私達が台湾に行ってどうするかなのだ。体で感じた台湾を私達はどこへ連れて行くことができるだろうか。
13名での団体旅行、その中でも一人、一人の旅があった。現地ガイドの柯さんには大変お世話になった。仕事を超えて私達の旅を一緒に楽しんでくれた。ありがとうございます。沖縄に帰って来て「〜の〜がよかった」とか「〜がおいしかった」とか、感想を聞くとあらためて"あーよかった。この旅を企画してよかった"と少し救われた気分になる。私自身、もう一度行ってみたい。みんなお疲れさま、そしてありがとう。(あずき)
みんなの台湾の感想を冊子にしました。その一部を紹介します。
Ω わんが一番気に入った町は金瓜石(キンカースー)です。ここは以前金山だったそうです。山の斜面にたくさんの家が建っていて、それが巨大な迷路みたいになっている。洗濯物がほしてあったり、家の軒先に小さなお店があったりして生活臭が感じられるのに何故か無人の雰囲気があり、不思議だった。痩せた犬がたくさんいて人より犬に会うほうが多かった。その犬たちは何故かわんの後を静かについてくるのです。町の中を歩いて15分くらいで勧済堂へ着いた。ここには天人聖母という神様がまつられていました。その神様を写真でとろうとしたらシャッターがおりません。恐っ。勧済堂にはなぜか二宮金次郎の像があり顔が中国風になっていました。台湾ではガチョウの首とアヒルの舌とカエルを食べました。おいしかった。(あまね)
Ω 台湾の町や村を歩いていると、ところどころ沖縄と似ているなぁーと思う事がよくあった。例えば市場に置いてあるもの。豚足(テビチ)、豚の顔(チラガー)、豚の腸(中味)などもそうだし、いりくんだアーケイド内の商店のようす。道端でバナナやパパイヤなどをおじい、おばあが売っているところはまさに沖縄という感じだった。自分も沖縄に住んでいるので身近に感じられ、おもしろい。今度行く時は沖縄と台湾との昔からの繋がりをもっと知りたい。台湾に伝わる昔話を集められたら楽しそうだ。その為にも自分たちの知りたいもの、見たいもの、やりたい事の目的を決め、チームに分かれて旅の最後に終了報告を出し合ったらどうだろう。(のびー)
Ω 台湾、二度目の外国。小さいころから沖縄から出ないだろう、首里からも出たくないと思っていた俺にしたら一年の間に二度も海外を見るなんて思っても見なかった。
基隆でも高雄でも驚いたのが、コンテナの量。バージの大(でか)さも、その数もハンパじゃないし、SF映画にでも出そうなバージ車?に目が点になった。
釣り人は思っていたより多く、平日なのに東側の海岸線は行けども行けども釣り人がいた。車を横付けにして即荒磯って感じの釣り場が延々と続くのだから気持は分かる。意外だったのが、台湾の本屋で手にした釣りの雑誌に、沖縄の釣り人にもなじみの深い"カーエー"が特集されていたのが興味深かった。字は全く読めないが「〇〇名人的〇〇釣方」みたいな内容・・・多分。帰ってからおやじに話すと、昔は台湾リールなる物や台湾からの釣具も大分入って来ていたそうだ。今の沖縄の釣りブームのルーツのようなものを感じて、なにやら親近感を台湾の人たちに感じ、並んで釣り糸を垂れたくなった。(にぃにぃ)
Ω あっという間の5日間だったが台湾の風や人々と出逢って感じるものがいっぱいあった。台湾の人は日本語が上手だ。私達が日本人と分かるとすぐ日本語で話しかけてくる。日本語を話せる事は知っていたが、こんなに上手だとは思わなかった。10年間の日本統治時代の影響は言葉や食文化など様々形で残っていた。
旅の間、日本人である私達を露骨に嫌がる人には出合わなかった。むしろ、楽しそうに日本語を使っているように見えた。外国に行って英語ではなく日本語が通じるのは不思議な感じがした。でも、時に日本語も英語も通じないことがある。こういう時には筆談でやりとりする。料理の注文は漢字を書けば通じるが、会話となると漢字だけでは無理でジェスチャーを加える。一つの質問を紙に書いて、その後ジェスチャーをする。相手は少し考えて「あー」と理解してくれる。自分の気持ちを試行錯誤しながら相手に伝える。何気ない会話も時間がかかるが私はこういう時間がすごく楽しかった。(きか)
Ω 私、台湾に行ってまいりました。台湾とは驚き・びっくり・発見の三拍子そろったすごく不思議なおかしな所でした。ゴーヤは白いし、茄子は長いし。まるであまりの暑さにゴーヤは白くふやけて、茄子はのぼせてしまったかのようだった。そしてコンビニのお茶は甘い!だって"烏龍茶"に砂糖だよ。これこそカルチャーショックというもの。
都会は日本とかなり似ていて、やたらと車・バイクが多い。スピードは速いしバイクなんかは4〜5人乗っているのもあった。あーやっぱり日本と違うなー。言葉にはあまり困らなかった。お年寄りは結構日本語が話せたし、若い人は英語が通じたし漢字も使えたから、なんか複雑だった。私はどちらかというと台湾の山や田舎町の金瓜石や太魯閣あたりが気に入った。ここはもっとゆっくり居たかったな。お寺も気に入った。日本のお寺とはぜんぜん違った。すごくカラフルで、こんなお寺もいいなぁ。今度はお寺巡りもしたい。(くみ子)
「沖縄の時」
高等部二年 米倉 悠史
僕は沖縄という地で、約一年半という時を過ごした。今、その一年半という時間を振り返り、出会った人、出会ったもの、その中で得たことを考えている。いや、本当なら考えるなどということなく、胸をはって「自分はこうなった」と言えたらいい。
人というものは薄情なもので、今までそこにあったものを急に失う頃になって、恋しく思えてくるものだ。僕も、沖縄を離れていくと決めた時、自分はもっと沖縄という場所で掴み取らなければならないものがあったのではないか?と後悔に浸っていた。しかし、僕が沖縄で得たもの。それは、「こうなった」とは言えなくても「こうなりたい」という理想とそれに伴う生き方が見えてきたように思えることだ。
それは、沖縄でしか出会えない人との関わりがあったからだ。珊瑚舎スコーレ、そこから広がった人脈の中で出会った人たちとの関わりの中で、考えたこと、体験したことが、僕を導いてくれたように思える。そして、彼らは皆、「生きている人」であった。彼らはもう地に足が着いた大人であって、しかし、その瞳の奥にはまだその先に、何かが待っているという目をしていた。そう、"求め続けること"。僕が沖縄で過ごした時の中で、気づいたことだ。そして、これからの僕の課題は、求めつづけるという炎を灯し続けられるだけのエネルギーを常に持ち続けなければならないということだ。
それは日々、見て、感じて、学んで、考えていくことが重要になる。以前、ゲッチョが「二十歳まで
に行った場所でその影響や印象が大きければ、その人にとってその場所が一生を通して、ものを見たり、考えたりするための"原風景"になる」と言っていた。そうだとすれば、沖縄という地が、僕にとって重要なファクターになっていくことは確かだ。見つめていた自然が、街が、味が、そして風と共に鳴った三線の音が、全て原風景になるだろう。
最後に、僕をよそ者扱いすることなく、「ここがおまえの故郷だ」と言ってくれた沖縄の人達、そして関わってくれた全ての人に"ありがとう"。また再びこの地を訪れた時、笑顔を返せる自分で在りたい。
(米倉君は、当初の目標であった大検にパスしたので、この九月珊瑚舎スコーレを終了し、東京に帰りました。この一文は沖縄を離れるにあたって彼が書いた文章です。)
学校の役割 その23
沖縄大学と提携の話を進めています。沖縄大学はおそらく日本で一番小さな大学です。大学受験の資料を見ると、どの受験産業もFランク(最も入学試験が簡単な大学)にしていますが、実はもつとも難しいともいえます。入学試験に対する考え方、つまり学力観が独自のものなのです。この一番小さくて、独自の学力観を持っているところが大変気に入っています。もちろん学校教育に対する考え方は言うまでもないことです。
学長は沖縄近現代史の新崎盛暉さんです。10月に、沖縄の近現代史の特別講座を珊瑚舎スコ−レでもって頂きました。環境問題の宇井順さんも教授として参加しています。先日は偶然にも野本三吉さんが珊瑚舎スコ−レを訪ねて来てくれました。10月から教授に着任したそうです。提携の話を大変喜んでいらっしゃいました。
提携の内容は高等部を指定校(校長の推薦だけで入学できる制度)にすること、希望者には珊瑚舎スコ−レの専門部の学生と沖縄大学の学生を互いに聴講生としてむかえること、講師の交流をはかり、珊瑚舎スコ−レの講師が沖縄大学で、沖縄大学の教員が珊瑚舎スコ−レの講師を勤めることが出来るようにすることなどを中心に話を進めています。
来年度から専門部のカリキュラムが沖縄研究を中心にしたものに改変されます。(同封した沖縄短期留学のリーフレットを参照して下さい)その沖縄研究関連の10講座が専門部との提携の具体的な対象になると思いますが、他の10講座ももちろん魅力あるもので希望者がいればどしどし参加してほしいものです。
旧来の制度の垣根を取り払うことは大変重要なことです。学校はもっとも保守的な組織の一つだと思っています。沖縄の学校もヤマトゥ以上に保守的なところがあります。この原因は明治以来、日本政府が取ってきた沖縄政策によるところが大きいと僕は捉えています。
珊瑚舎スコ−レと沖縄大学の提携は日本の学校教育にとって画期的なことだと思っています。NPO法人の認可申請中(別ページに報告を掲載しています)ですが、学校教育法の枠外にある私設の学び場と文部省が認可している大学が提携することになるわけです。
沖縄大学はどこにその判断の基準を置いているのか。もちろん生徒数の減少でどこの大学も学生募集に苦労しているという側面はありますが、そういうことより学ぶ側、つまり学生たちに学ぶ機会と場を豊富に提供することが重要であるということに判断の基準を置いているのだと思っています。実際、沖縄大学の提携大学は海外も含めて大変幅広いものです。
この考え方は大学にかぎったことではなく、学校教育全般に必要なことです。
先日、珊瑚舎スコ−レに小学校入学を前にした子供の保護者の方が相談に来ました。通学区にある小学校に子供を通わせる気にならないので、中等部の入学対象年齢を6歳にできないものかということでした。こういう要望は多いです。こちらの態勢が整っていませんから今はお断りするしかないのですが、何が問題かというと、公立の小中高等学校にそれぞれの学校教育観に基づいた教育を展開する独自性がないことです。教学校育が中央の統制のもとに置かれていることです。教育観は一つではありません。いろいろあるものです。それぞれの地域に珊瑚舎スコ−レのような教育観に基づく学校もあればそれとは違う考え方の学校もある、選択は住民がすればよいことです。さらに、「隣の学校のこの授業にこの日は参加する」ことが出来るようにすることです。しばらく混乱があるかもしれませんが、教育にお金を使う気があるなら出来ることです。
豊かな社会とは子供や若者の成長のためにお金を使うことのできる社会だと思います。(ほ)
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