沖縄便り
その十九
沖縄の夏祭りから
遠藤 知子
<寓話ミュージックキャンプinザマミ>
音楽講座の屋良さんが毎年夏に開くミュージックキャンプが20回目と聞いて参加した。音楽プラス飲み放題・食い放題の贅沢な催し物だ。船に揺られて2時間、座間味のキャンプ場につくとモクマオウの木立の間に会場が設えられ、キーボードやドラムが用意されている。夕方からの演奏を前に泳ぎに行く人あり、ハンモックで昼寝する人ありとみんな思い思いの時間を過ごしている。島は時がゆっくりだよーという言葉が実感される。
まだ日の高い6時ごろ島の子供達がやってきて、物語の朗読が屋良さんの伴奏でおこなわれた。そして屋良トリオの1回目の演奏。その後はやりたい人ならだれでもOKの"無礼講フェスティバル"が始まった。遠方では大阪から中年のデキシージャズのグループ、ボストン帰りのギタリスト、東京からジャズピアニスト、奄美からジャズボーカリスト、沖縄からはホルン、サックスと多才な演奏者たちが登場する。気がつけば珊瑚舎のユージも屋良トリオに混じってギターを弾いている。みんなこのキャンプ名物のバーベキューをほう張りながら、飲み物を片手に踊りだす。テントを張っていた人達も音を聞きつけて集まり、歌やダンスを飛び入りで始める。通り雨があるもの熱気は冷めそうもない。夜も更け、目の前の浜に寝転んでしばし贅沢なうたた寝を楽しむ。
アカショウビンの声で眼を覚ます。姿は見えないがあの独特の鳴き声も久しぶりだ。朝ご飯のフーチバージュウシィ(蓬入りの雑炊)が大鍋一杯に出来ている。疲れた胃に熱々のジュウシィがゆっくり染み込んでいく。南の島の正しい休日の見本のような一日だった。
<喜屋武(きゃん)の綱引き>
沖縄は綱引きの盛んな土地です。各地で行われているようです。祭りの一環というより綱引きそのものが祭りです。本島で代表的なのは与那原の綱引き・那覇の大綱引きでしょうか。今回、南風原文化センターの平良さんの勧めで旧暦の六月二十五日、二十六日に行われる南風原町喜屋武の綱引きを生徒の何人かと見にいきました。平良さんの「大人が本気で遊んでいますよ」の一言に誘われたのです。
26日の夜9時半ごろと聞いて出掛けましたが、西(イリ)の集落の広場には綱は置いてあるものの子供達が遊んでいるだけです。上のほうで唄・三線の音がするので坂を登ってみましたが、東(アガリ)の広場もまだ静かです。綱引きは東西に分かれて引きます。アガリ・イリのどちらを引くかは生まれた家によって決まるとか。結婚してもこの時は自分の家に戻るそうです。綱は雌(イリ)雄(アガリ)に見立てた二本の綱を結合させ、それぞれの本綱の横に引綱を何本もつけ、それを引っぱるようになっています。もともとは豊作を占ったり、害虫駆除に因む伝承を持つ農業に深く関わる祭りだということです。
びっくりしたのは喜屋武の綱引きの場所(一般道路)は東側がかなりの上り坂になっており、しかもカーブしていることです。普通ならこの地形では勝負にならないはずです。東が勝つことがあるのでしょうか。後で平良さんに聞くと、いや勝負にならないなんてことはないですよ、7年前は東のほうがよく勝っていたし、昨夜は一対一の引き分けでしたからという。
待つこと一時間、若者や大人の姿が見え始める。西の綱が道路に広げられ、その上に若者が陣どり銅鑼が打ち鳴らされる。しばしして松明を先頭に東の綱が高くかかげられて坂を下ってきた。両綱が睨みあうように置かれた瞬間、東西の若者30人ほどが走り出て激しくぶつかり合う。手足を使うことは禁じられているようだが、これだけ激しければそうもいかないようだ。その後に棒術が披露される。そして本番。太い棒をかんぬきにして東西の綱を結びつけるのだが、持ち上げた綱を互いにつぶしあい、罵り合い、つかみ合いが始まる。会場も興奮し始め"(綱を)あげれー!シナスゾー"等と声が飛ぶ。世話人が苦労の末なんとかかんぬき棒を差し込んだか差し込まないうちに、なんの合図もなくいきなり、こぞって引き始める。綱の上の若者が何人か振り落とされる勢いだ。旗がふられるとか、銅鑼が鳴るとかの合図があって始まると思っていたので見ている方もあわててしまう。それまで固唾を飲んで見ていたキサキとノブがたまらず東西に走りより引き子になっている。それこそ老若男女、集落のほとんどが参加しているのだろう。先頭は若者だが、その後ろには3〜4歳児の子供までが連なり必死である。引けないオジィ・オバァは手拭をふっての応援だ。どうしても負けられないという気迫にみちている。引くこと26分、西が勝った。綱引きでの26分は死闘のようなものだろう。(引いた二人は後日まで腰が痛かったという。)勝てば勝ったで、負ければ負けたでカチャシーの輪が出来る。一息入れた後、最後の気力で、東の綱が初めと同じように高く掲げられて坂を登って帰っていく。
子供達の姿が消えたのは夜中の1時半すぎでした。一年に一遍の遊びが終ったのです。
<エイサー>
沖縄の民族芸能の中で最も親しまれているのはやはりエイサーでしょうか。エイサーとは祖霊を慰めるために行われる盆踊りをいうそうです。エイサーには古くからの念仏エイサーと大太鼓、締め太鼓、パーランクーの大中小の太鼓を使いながら群舞するアシビ(遊び)エイサーがあります。今エイサーと言えばアシビエイサーをさすようです。もともとは本島の中部で行われていたそうですが、この頃は各地の青年会が中心となってお盆の前後にはあちこちで盛んに行われ夏の風物詩となっています。6月になると珊瑚舎の前にある与儀公園でも練習の太鼓の音が聞こえてきますし、アパートの周辺でも夜の10時頃まで音が届きます。今回は三ヶ所のエイサーを見に行きました。
8月22日・国場
座間味のキャンプで知り合った国場の渡慶次さんから"念仏エイサー"をと誘われました。
夜の8時に公民館に着くと三線と鐘の地謡と念仏を詠う男女が揃っていました。詠う方々は無縁仏を象徴しているそうで着物姿に荒縄の帯、そして手拭で頬被りして顔を見せないようにしています。三線の音に合わせて手にした太鼓を叩きながら、哀調を帯びたリズムで人の誕生から死んで土に返るまでを、新盆の家の前ではその悲しみを詠います。ご詠歌のような感じです。道ジュネーといって集落を巡り歩きながら要所々で詠うのですが、この夜は国場の根屋ネヤー城間家(この地区の元になった家)と古くからの門中の渡嘉敷本家にも寄りました。二軒とも個人の住宅ですが、屋敷内に誰でも自由にお参りできる拝所があり、きちんと設えられているのが印象的でした。かつてはお盆の3日間をかけてほとんどの家々をカチャーシーをしながら巡り、最後の夜は夜明けまでかかり、打ち上げは国場川を船で下りながらしたとか。その川は護岸工事でコンクリートに固められ船を浮かべる水量を持っていません。
念仏エイサーは地味なので若者を惹きつけられず継承が難しく近頃はアシビエイサーもいれているそうで、この日も残波流のエイサーと一緒でした。車椅子の少年が実に楽しそうに太鼓を打ち鳴らしており、新しいものと古いもの、そこには優劣がなく人々はそれぞれに共感を寄せているようでした。
8月23日・佐敷
佐敷町には珊瑚舎の寮があり、生徒は去年から参加させてもらっています。今年も寮生が何人か練習していましたが、夏休みなので参加したのはミオ・ユージと工芸講座の講師をしている城間ニィニィの三人でした。23日はウークイ(お盆の十五日)にあたり満月でした。道ジュネーの最初は三人ともちょっと緊張の面持ちでしたが、いつのまにこんなに踊れるようになったのと驚きでした。終盤は余裕がでたのか踊るのが楽しくてしょうがないという表情(特にニィニィは)で「唐船ドーイ」を踊っていました。佐敷のエイサーはまだ5回目と新しく、その分いろんな挑戦ができそうな雰囲気があります。地謡は沖縄講座の講師の宮城竹茂さんが参加しており三線に横笛が入った本格的なもので、女の人も混じっています。(普通エイサーの地謡は男だけのようです)
8月24日・平敷屋
お盆も終わり、会場の運動場は屋台も出て祭り気分の観客で一杯でした。町内だけでなく県外からも平敷屋のエイサーを見ようとするファンが多いようです。青年会は一つですが、エイサーは東(アガリ)と西(イリ)に分かれています。この日はそれぞれの組が取り組んできたすべてを披露します。子供会エイサーがあり西から始まりました。1時間40分ほど休みなく踊りつづけます。続いて東です。東のエイサーについては以前星野が書いた文章があるので引用します。
「畏敬の爪先」
太鼓打ちの足の運びの美しさ
エイサーといえばコザの園田(そんだ)のエイサーに代表されるような大太鼓を叩きながらダイナミックに踊るものがよく知られています。
平敷屋のエイサーはそれとはまったく趣の違ったものです。とりわけ太鼓打ち(テークウチ)の動きは独特です。
常に背すじを伸ばした直立の姿勢で踊ります。右手にギチチ(モンパの木)の枝で作った撥を持ち、それを天に対して平行に差し上げると、瞬時の静止の後、パーランクー(直径20センチほどの片張りの小太鼓)めがけて振り下ろします。両脇をしめ、視線は正面遥かを直視しています。
この交わる二すじの直線、つまり地面に対して、直立した背すじから生れる垂直な線と、目線から生れる平行な線、両腕の動きも背すじの緊張から生れるものですが、この二すじの直線がつくる、歪みを拒絶したかのような静謐な均衡をパーランクーの音が解放します。この緊張と解放の間断ない連続が太鼓打ちの視線をさらに深く、遥か正面の何ものかを凝視させます。
直線的な腰から上の動きに対して足の動きは対照的です。
エイサーは念仏僧が物乞いをしながら門々を巡る念仏踊りが源流だと言われています。太鼓打ちの装束はその念仏僧を思わせるもので、紺地に白の下穿き、白の肩掛けです。踊りによく合いますが、その物乞いをする太鼓打ちの足の運びはなんとも美しいものです。それはやがて俗界を通り抜け、あたかも視線の先にある別の世界へ歩み入るための清浄な祈りのようで、何ものかに対する畏敬が爪先にまであらわれています。
平敷屋ではこの足の運びをタウチ(軍鶏のこと)の歩き方と言っています。ひざを勢いよくあげた後、ぴんと伸ばした爪先が柔らかな弧を描きながらゆっくりと地面に降り、つづいて踵が下ろされます。緩急をつけたなんとも美しい曲線的な動きです。
平敷屋のエイサーは、エイサーの古い形を伝えていると言われていますが、一言でいえば「畏敬のエイサー」です。ひとつの精神の持続がなければ決して生れてこないものです。これはそんなに簡単なことではありません。風土から生れる自然な意思がつくるものです。そこに潜む普遍性が観るものを引き付けるのです。平敷屋のエイサーの独自性はここにあります。 (星野人史)
すべて終ったのは11時過ぎ、十六夜の月が天空に輝いていました。平敷屋は勝連町の一集落です、其のなかで総勢130人余りの若者(エイサーを踊れるのは16〜24歳までと決まっています)が2ヶ月間毎夜練習に励むエネルギーの源はどこにあるのか考えさせられます。4年前東京の池袋で東のエイサーを教えてくれた埼原さん、知念さんも会場に見えていて、ロープの向うとこっちでは世界が違うと二度と踊れない感慨を噛みしめているようでした。
学校の役割 その22
台風のため2度も足止めされて行けなかった多良間の「八月踊り」に今年はとうとう行ってきました。
多良間島は宮古島と石垣島のほぼ中間に位置する東西6キロ、南北4.5キロのお盆を伏せたような平らな島です。人口は約1,400人。この小さな島で旧暦の8月8日、9日、10日の3日間、朝から晩まで島民総出で様々な芸能が御願所(うがんじょ)と呼ばれる拝所で奉納されます。
「八月踊り」がいつから行われるようになったかはっきりしていないようですが、その歴史は古く、過酷な「人頭税」の皆納を祝ったことが起源で、その年の豊作を感謝するとともに、来年の豊作を祈願する「八月御願」と呼ばれた豊年祭が始まりと言われています。昔は「皆納祝い」とも言っていたと島のオジイは言っていました。
多良間は2つの字に分かれていて1日目は中筋字の「ンタバル御願」で、2日目は塩川字の「ピトゥマタ御願」で、3日目は「わかれ」といって2つの字が同時にそれぞれの御願所で芸能を奉納します。国の重要無形民俗文化財にも指定されているそうです。
舞台の中央正面に中筋字は「偕楽」(ともに楽しむ)、塩川字は「歓楽之」(歓びてこれを楽しむ)と書かれた扁額が掲げられ、その下で島の人たちは3日3晩、文字通り「楽しむ」のです。僕はこの扁額の言葉に、ちょっと感動してしまったのです。豊穣とか太平とかそういう類の言葉ではなく、「楽」なのです。
「総引き」といって、演目が始まる前に二つの組踊りの演目を書いた高札、大風廻(ウプカジマヤ―)という大風車、ムカデをデフォルメした独特の旗(ムカデ旗)を飾った大長刀に続き、出演者全員がそれぞれの衣装を身につけて登場し、ゆっくりと舞いながら舞台を一巡りして退場します。その後、先頭で登場した一対の高札、大風車、大長刀を扁額の左右に飾ります。扁額の言葉がさらに生き生きとして舞台に映えます。この「総引き」は上演が終了するときにも行われますが、演じる側と観る側が一体になって大袈裟ではなく鳥肌が立ちます。約12時間、休憩なしの上演です。見るほうも大変なのですが、ずっと観てしまうのが不思議です。
気がつくと「楽しむ」ということについてちらちらと思いを巡らせていました。楽しめばそれでいいのに、「楽」について考えてしまうようなことは「扁額」の精神に反しているようで変な気分になるのですが、僕のような人間をジンブンフラーと沖縄では言うようです。浅学菲才で余計なことを考えて役にたたない人のことです。役に立てるようがんばっているつもりです。
以前別の用事で多良間に行ったとき、那覇で懇意にしている人の妹さんを紹介され、電話で連絡して宿で待っていると、挨拶がわりに「先生、今日は一晩中遊びましょうね」と言われてドギマギしたことことがありますが、家族あげて歓迎して頂きご馳走になりました。近所の方も遊びに来て三線を弾いて歌ったり、ゆんたく(おしゃべり)したり、一騒ぎした後、夜中の1時過ぎになってから浜に行ってタコ採りをしようということになりました。
妹さんと彼女の息子さん、娘さんと僕の4人で出かけたのですが、みんなマジなのです。沖縄とはいえ冬の海はさすがに寒いのですが、それも厭わず、タコ採りに没頭しているのです。獲物はたった2匹、その悔しがり様もまたマジなのです。娘さんは今度来た時は釣りに連れて行くと捲土重来を誓っていました。明け方の4時ごろ宿に戻りましたが、文字通り一晩中遊びました。
妹さんは製糖工場に出勤し、息子さんも土木工事の現場に行き、若い母親でもある娘さんは1歳の子供の世話をし、ゆっくり寝たのは僕だけだったことが、工場を抜けて飛行場にお土産まで持って見送りに来てくれた妹さんの話でわかりました。歌うときは歌い手に、タコを採るときはタコ採りに、働くときは働く者に、その時々の笑い顔が、孫のいる人(42歳だそうですが)には思えないほど若々しいものでした。
「楽」ということをちらりちらりと考えながら、あの時の妹さん達の「マジ振り」を思い出していました。「八月踊り」の出演者、裏方は畑人(はるさー=百姓)や海人(うみんちゅう=漁師)をはじめみんな素人です。素人ですが舞台はマジです。人を引きつけます。準備や稽古は仕事が終わった後、本番の2〜3習慣前から始めるそうです。とてもそんな短い期間で仕上げたようには思えませんでした。
「楽しむ」とういことはマジにその場に立つことなのだと思います。妹さんは客をもてなし、客と遊ぶことにマジでした。「遊びましょうね」は「扁額」に刻まれた「楽」に通じるものを感じさせます。
「楽しいことなんか一つもない」と言った若者がいました。自分がマジに立てる場がないのだと思います。マジに人に向かい合えたことがないのだと思います。生徒みんなが珊瑚舎スコーレをマジに立てる場として感じていてくれることを願います。(ほ)
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