琉歌の世界
その十四
珊瑚舎スコーレの放課後、事務局で仕事をしていると三線の音にのってきれいな歌声が聞こえてきます。「四つ竹」です。CDを誰かが聞いているのかなとも思いましたが、CDにしては$カっぽいので美術室をのぞいてみると高等部の生徒がいました。椅子に腰掛け、背筋をぴんと伸ばして三線を弾く後姿がきれいでした。いつの間にこんなに上達したのかと思います。びっくりします。
打ち鳴らし鳴らし四つ竹は鳴らち
今日やお座出ぢて遊ぶ嬉しゃ
(うちならしならしゆつぃだきはならちきゆやうざんじてぃあしぶうりしゃ)
「四つ竹」は代表的な琉球舞踊ですが、そもそもは楽器の名前です。紐で結んだ二枚の竹の板を両手にそれぞれ持って、合計四枚になりますから四つ竹ということですが、その凸面の方を打ち合わせて音を出します。カスタネットに似ています。乾いた歯切れのいい音がします。四つ竹を打ち合わせて踊るから踊りも「四つ竹」ということでしょう。花笠と紅型の装束が美しい優雅な踊りです。その時歌われるのが「踊こはでさ(うどぅいくふぁでぃさ)節」で上の琉歌が歌詞です。歌意はお分かりになると思います。
打ち鳴らし鳴らし四つ竹は鳴らち
今日や浜出ぢて遊ぶ嬉しゃ
こういう歌詞もありますが、琉舞は宮廷の芸能ですから本来は「お座」で「浜」は琉舞が一般化してから、毛遊びなどでその場に応じて歌詞を変えて歌ったものなのでしょう。
ついでといったら何ですが、こんな琉歌もあります。「踊こはでさ節」とは関係ありません。
打ち鳴らし鳴らし四つ竹は鳴らす
鳴らす四つ竹の音のしほらしゃ
踊ることより四つ竹を打つ楽しさを歌ったものです。「しほらしゃ(しゅらしゃ)」は「素晴らしい」ということです。 この「踊こはでさ節」には本歌があります。
こはでさのお月まどまどど照ゆる
よそ目まどはかて忍でいまうれ
(くふぁでぃさぬうつぃちまどぅまどぅどぅてぃゆるゆすみまどぅはかてぃしぬでいもり)
「こはでさ(クファディーサー)」は樹木の名前です。和名はモモタマナですが、「枯葉手樹(こはていし)」とも言います。「クファディーサー」は枯葉手樹のウチナー読みでしょう。南の樹木には珍しく、紅葉して葉を落とします。朴の木の葉のような大きな葉です。枝を広げて心地よい木陰を作りますから公園などでよく見かけます。平和祈念公園にもたくさん植えられています。英名はインディアン・アーモンドで、その名の通り種子は食べられるそうです。浜によく打ち上げられています。桃の種に似ています。
墓地にもよく植えられていて「人の涙、泣き声などで育つ木」などと言われ、縁起のよくない木とも言われます。確か、山之口獏だったと思いますが、詩にうたって沖縄の状況と重ね合わせていましたが、どうもこの言い方はウチナンチュウの感覚から生まれたものではないような気がします。沖縄では墓所は忌み嫌う場所ではありません。ウチナンチュウは墓所に度々参って掃除をしたり宴をしたりしますから、大きな木陰を作ってくれるクファディーサーはありがたい木だったはずです。屋敷を壊すほど勢いが強く、枝を広く大きく張るので家の庭などに植えるには不向きで、それで墓所によく植えられたのでしょう。
琉歌に登場するクファディーサーは「男女相愛の場」です。樹高が二十メートルにもなり、枝葉が密生して深い樹陰をつくりますから月夜に人目を忍んで逢うには格好の場所だったのです。それでも月明かりはクファディーサーの枝葉から「まどまど」、つまり時々「照ゆる」から、「よそ目まどはかて」、人目を計算して「忍びいまうれ」、そっと目立たぬようにいらしてね、ということです。
「四つ竹」を舞うときには冒頭に挙げた琉歌が謡われます。もともとある「踊こはでさ節」の節(メロディー)だけを借りてきたものです。詞は「四つ竹」のために作ったもので、踊と本歌の詞との間には何の関係、脈絡もありません。しかし、あの優雅な女踊「四つ竹」を見ていると「よそ目まどはかて忍でいまうれ」と心の中で祈っている娘さんの姿が重なってきてしまうのです。 (ほ)
学校の役割 その21
那覇市の「男女共同参画会議」の委員に任命されました。依頼があった時に「なぜ僕なんですか」とお尋ねすると、「書いたものをいくつか読ませていただきました」とういお答えでした。「男女共同参画」という視点で文章を書いた記憶はないのですが、学校教育について書いていることが那覇市が推し進めようとする「男女共同参画会議」の設置主旨に重なるということのようです。それにしても、狭い範囲にしか配布されていないと思っていたのに、どこかで誰かが読んでいると思うとちょっと驚きでした。興味があることなので委員をお引き受けすることにしました。
先日、地元紙が男女混合名簿の実施実態を報じていました。実施している学校の昨年の全国平均(日教組調べ)は小学校で61.5%、中学校で40.2%、沖縄県は今年度5月の時点(県教育庁発表)で、小学校4.6%、中学校4.2%で、全国平均との開きを「遅れる"性差改革"」という見出しで報じていました。
昨年度の沖縄県教育委員会の資料によれば、沖縄県の小学校の教員の男女比は女71%、男29%、それが校長になると女28%、男72%です。
男女、あるいは女男混合名簿の採用について県教育庁は「あくまで校長の判断と静観している」ということですから、この問題に関して言えば、沖縄の小学校は圧倒的な少数派の男性校長が権力を握り「女こども」を仕切っているとも言えます。教育庁はそれを黙認しているという構図です。女性校長も「女のかしこさ」でそれに追随しているか、あるいは「男」にならざるを得ない状況にいるか、もしかすると「男」になっているかもしれません。
「静観」は痛みがないからできることです。痛みを感じないのは鈍感です。想像力の枯渇です。
珊瑚舎スコーレの「平和学講座」の1年目は「ジェンダーフリー」を中心にカリキュラムが組まれています。「日常的な差別構造、抑圧構造に意識的になり、自分のできることをすることが平和への一歩です」というのが講座案内です。そのための切り口としてジェンダーをとりあげることが有効だと考えているからです。
珊瑚舎スコーレでこんなことがありました。
カレー大会の余興に「腕相撲トーナメント」をやろうと言うことになりました。二人の女子生徒が企画していたのですが、男のトーナメント表しかなかったのでスタッフの遠藤が「女もやろうよ」と彼女たちを誘うと「ええー、男がやって私たちは見ていようよ」というような返事です。遠藤が「それってジェンダーに関わる問題だよ。なんで男だけなの。みんなでやろうよ」と言って、近くにいた女子生徒を誘って「女子の腕相撲トーナメント」も開催することになりました。もちろん企画していた二人も参加しましたが、「イトカズさんがいなくてよかった」とそのうちの一人が言いました。以上は遠藤から聞いた話です。イトカズさんは平和学講座の講師です。
この出来事からふたつのことを考えさせられます。ひとつは授業を生きた場として作ることの難しさです。とりわけ、平和学講座のように個々人の価値観が如実に現れる授業の難しさです。珊瑚舎スコ−レの授業作りの中で最も難しいものでしょう。(糸数さんは「説教」や「道徳の時間」にならないよう腐心しています)もうひとつは一つの感覚(センスと言ったらいいかもしれません)を自分のものに作り上げてゆくことの難しさです。
彼女は一年近くイトカズさんやクラスの生徒たちとジェンダーについて考えてきたのですが、彼女にとってジェンダーの問題は「自分の問題」ではなく、「イトカズさんの問題」なのです。こうも言い換えられます。平和学講座は「自分が生きるため時間」ではなく、「珊瑚舎スコ−レの授業の時間」なのです。彼女はジェンダーで不自由や屈辱を感じていないのかもしれません。あるいは感じていても体験が分断されているのかもしれません。
結局、授業の問題になってくるのですが、生きた場、新たな体験の場として授業が作られなければなりません。そうでなければ想像力は生まれません。
生徒・学生が、もちろん自分自身も含めて、「静観」といってはばからないセンスの持ち主にならないように、珊瑚舎スコーレに関わる人たちでこの場を支え続けなければなりません。(ほ)
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