ガジュマルシンカヌチャー(生徒・学生のコーナー)
自己評価ノートを書いて
手塚 みお
珊瑚舎スコーレに「自己評価ノート」というものがある、と知ったのは前期も終わりに近づいた10月の中頃だったろうか。「旅期間」の始め3日間が前期の"自己評価ノート記入期間"だった。講師たちの質問(なげかけ)に答えるべく、今までやってきた取り組みを自分で評価するというものだ。全部で15科目。ドキドキどんなことが書かれているんだろう。
質問はその講座によってそれぞれ違っていたが、どの科目にも共通している内容は――今までやってきたことで想ったこと、感じたことをかいてください――というものだった。英語の詞を書くのもあり、
旅行業法の意味の問いかけあり、紅型の好きな色を聞かれたり、と各教科ごとにそれぞれだった。うーん難しい。今までの学校のテストみたいに答えが1つと決まっていない。適当に書いてしまってハイ終わりだったらそれまでだけど、自分の書いたその文章に講師の人達からのコメントがついて返ってくる。今までいっぱいいっぱい学んだことがあって、それについても想うことがいっぱいいっぱいあったけど、いざそれを言葉で表そうとしても、どう表して良いのか。うーん難しい。考えながら書くので私にとってとても難儀な3日間なのでした。
講師の人達からのコメントが返ってきた時はドキドキ、どんなことが書かれているんだろう。なんだか照れ臭いような感じがした。自然講座のゲッチョのは私が不思議に思ったこと、疑問に感じたことに対して赤ペンでこまめに説明してくれている。なんだか文通みたいで楽しいなぁ。みんな私たちの考えていることに対していろいろコメントを書いてくれている。やっぱり普段口に出す機会のない思っていることを文に書いて講師の人達に伝えると言うことは、自分の「記録」にもなるし、良い事だと思った。今、改めて自分の自己評価ノートを見て思うことは、学んだたくさんのことをそのままにしておいてはもったいない。こういう機会に自分の中でちゃんと整理をして、それを深めていくるような形になったらいいなと思う。それをまた次の講座につなげていきたい。
学校の役割 その17
高等部の生徒が文章講座で書いた「一番古い記憶」を紹介します。
「ころがる自分」
自分は言葉などわからない。
満たされていないせいなのか、
とりのこされてしまう。
たくさんの大きな手が自分をとりかこむ。
最初からわかってはいるのに、
自分はまたおきざりにされてしまった。
自分は泣きながら名前を呼びつづけたのに、
あの人は去ってしまった。
自分の体はいつの間にか、
こんな所にほうり出されて、
けられて、ぶたれて、ころがっている。
自分はこの厚くて強い体を、
力いっぱいぶつけているのに、
誰も自分をつれていってくれない。
自分はずっと、
とりのこされているままだ。
いろいろな人の「一番古い記憶」を読んできました。でも、こういう「一番古い記憶」を読んだのは始めてです。
思い出や記憶は具体的な出来事や場面あるいは風景と繋がっているものですが、この文章にはそれがありません。孤独感と喪失感あるいは無力感と疎外感が鮮明に記憶されているだけです。
「ころがる自分」の記憶の「形」は「自分は言葉などわからない」という一行目と深く関わっているような気がします。これは記憶そのものではなく、記憶に対する態度です。具体的な出来事や場面、風景などの記憶に対する無意識のうちの拒否、あるいは抹消です。
「ころがる自分」は言葉で書かれているにもかかわらず、「言葉などわからない」と思うときの「言葉」とはどういうものなのでしょうか。「ころがる自分」とは別の「言葉」のはずです。つまり、「ころがる自分」以外のものです。
それはたとえば、自分をとりかこむ「たくさんの大きな手」がもつ言葉です。その言葉に「けられて、ぶたれて」、そして「ころがっている」、「おきざりにされてしまった」自分を見つける。名前を呼び続けたのに去ってしまった「あの人」の言葉も「ころがる自分」の言葉とは別の言葉です。すれ違ってしまうのです。だから、「体を力いっぱいぶつけているのに」つれていってもらえないし、とりのこされたままなのです。
幾度となく出くわした様々な具体的な場面が捨象され、そこに共通する感覚だけが抽象化された形で記憶に繋がっています。かなり早い時期にこの抽象化は行われ、現在もその中にいるのだと思います。形になるかならないかの微妙な言葉の世界の萌芽を摘み取られたことも記憶の中に断片として残されています。萌芽があるから拒否できるのです。他者の言葉の氾濫のなかで溺れてしまいそうだから、その言葉を拒否しなければならないのです。「自分は言葉などわからない」と言わざるを得なかったのです。具象を可能な限り削ぎ落とすことによって語ることのできる、あるいは記憶としてとどめることのできる「ころがる自分」なのです。
しかし、「ころがる自分」を書いたことによって、好むと好まざるとに関わらず「ころがる自分」から脱出する可能性が生まれています。他者の言葉を排除したモノローグから他者と言葉を共有しようとするダイアローグへの変容です。それは場の獲得ということです。日記やノートに書かれて人の目には触れることのない文章ではなく、人が必ず読むことを前提にした「一番古い記憶」を書き、発表し、他者の感想を聞くということ、つまり交流の場を手に入れたことです。おそらく、はじめて経験したことでしょう。時間が経ってまた書く機会があれば、次の「一番古い記憶」は別の「形」になっていると思います。
「言葉の喪失」ということをここに書いたことがあります。それは「場の喪失」ということと密接に関わったことです。「ころがる自分」は自分を生きるための「場の喪失」の記憶であり、「自分」に固有の「模倣の時代」を通り抜け、「模索の時代」の入口に立つ若者の自画像です。(ほ)
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