沖縄便り その13
《与儀市場通り》 遠藤知子
珊瑚舎スコーレのすぐ裏手に「与儀市場通り」があります。どこが市場、商店街なのと言いたくなるような、ほとんど"路地裏"感覚のマチグワァですが、20年前は50店舗からの店が並び、若い人や子供も多く大層な活気があったとか。今は櫛の歯が抜けたようなとはこんな感じなんだろうなと思うなさびれかたです。雑貨屋、氷屋、文房具屋、八百屋、刺身屋(魚屋ではありません)、天婦羅屋、100円ショプ、弁当屋、元祖おばちゃんの店となのる食堂などが並んでいます。食堂に限らずほとんどはオバァが一人で切り盛りしており、男や若者の姿を見かけることはマレなことです。いや、1軒だけ赤瓦の家を開け放し黙々と如雨露やバケツを作りつづけるブリキ屋のオジィがいます。
私達はお昼の弁当やおかず、放課後のお茶、甘いものを買いに毎日通っているのですが、よそ者で若いからなのか、不思議がられると同時になにかと可愛がられているようです。弁当は二百、三百、四百円とあり、四百円はかなりの大食漢でも、オーというほどのボリューム。これでもかというテンコモリで、量の多さがご馳走という感覚が立派に生きています。ごはんが少なかったりすると、ピラフや巻き寿司を惜しげなく付けてくれたりします。おばさんに言わせると、沖縄は弁当屋にとってありがたい土地柄なそうで、祖先を大切にするので祝い事や法事が多く、なにかにつけてオードブル(沖縄独特のニュアンスのもの)や重箱の注文が多いとか。天婦羅はイカ、魚、ウインナー、そしてゴーヤ、紅芋、よもぎ等がありどれも1つ二十円という安さ。沖縄の天婦羅は衣が厚く、ちょっと味のついたおやつに近く、だれかが今日は天婦羅を買おうと言うとみんなから歓声があがります。この店には不思議なことがあり、食材を入れている冷蔵庫の中に民謡のカセットテープがたくさん入っているのです。一度尋ねてみたいのですがまだその機会がありません。八百屋のオバァはその体躯と顔、対応といいウチナー(沖縄)のアンマー(かあちゃん)といったところ。朝8時まえから店を開け、かなりの量の野菜、弁当、甘菓子、かまぼこ、豆腐を商っていますが夕方にはほとんど無くなっています。ほかにも八百屋や食料品店があるので、やはりオバァの人柄なのでしょう。サーターアンダギィなどを買っても1つ壊れているとかなり値引きをしてくれたり、おまけをくれたりします。
この商店街を歩いていてあれっと思うのはほとんどのお店にドア、ガラス戸がないことです。勿論自動ドアはありません。みんな板戸を開け放し、路地に剥き出しに面しています。間口2間、奥行き1間位の店に缶詰、味噌醤油等を並べただけのものでオバァが木箱に座っているのです。また幾つかの店には店名がありません。看板に刺身屋、天婦羅屋と書いているだけです。こうした一昔まえの通りは沖縄でも少なくなっているそうですが、余所者の勝手な思いでいうと残ってほしい雰囲気があります。
学校の役割 その16
人は、ある秩序の中にいないと精神的に不安定な状態に陥り、秩序と安定を求めます。秩序とは「観」といってもいいと思います。人生観とか、社会観とか、人間観の「観」です。自分自身とその周りに広がる世界を結ぶための論理です。つまり言葉の世界です。もちろん、感情や感覚と結びついているものです。
10才頃までの「模倣の時代」は大人、とりわけ親の「観」と同化して生活してますから、いいにしろ悪いにしろ基本的には安定した状態で生活しています。他者に対する不満はありますが、自分に対する不満、あるいは欠落感がない時期です。
10代の前半になると、親の観から脱出しようとする傾向が強くなります。自分の言葉の世界を作ろうとする欲求が生まれます。欠落に気づくのです。そのため、親や大人に対する反発も強くなります。「模索の時代」にさしかかるわけです。自分自身の「観」、つまり言葉の世界を探し始めるのです。一番不安定な時期です。生きものの成長の中で、これはヒトのすべてがそうだとも言えるのですが、ヒトだけに固有のものといっていいと思います。なぜなら、言葉の獲得、つまり想像力の獲得と深く関わるものだからです。
ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、ヒトの進化の歴史、つまり生態と形態の変化・変容の歴史ですが、この「模索の時代」は生態から見れば、近代になって急激にヒトに普遍化していっているものです。文明や制度といったものと密接に関係するのですが、簡潔にいえば、食料の採取(労働と生産)に関わらず消費するだけの世代です。模倣の時代を入れれば、ヒトの生涯の4分の1以上になります。種としてのヒトの特徴です。
模倣の時代は他の高等動物にも見られる現象ですが、生殖と食料の採取(労働と生産)が可能な個体で構成される「模索の時代」の存在が社会的に認知されている現象は、一部の類人猿に似たものがありますが、他の生きものにはありません。それは「自分の言葉の獲得」ということと密接に関わっています。ヒトのヒトたる所以です。
ヒトを人間の枠だけで考えるのは自家中毒を引き起こしそうで、ヒトという種の枠の中で考えなければならないのではないかと思っています。教育ということ、あるいはもっとヒトに固有の学校という現象もその枠の中で僕は考えようとしています。ヒトの来し方行く末を学校という現象の中から捉えたいと思います。
話題をもとにもどします。「模倣の時代」の大人の言葉の世界が豊かなものであれば模索のための手掛かりになるのですが、これが深みのないステレオタイプのものであれば、反発は強く、混迷は深まります。かつて、村社会などの地域共同体が形成されていたころは、たとえステレオタイプであっても大人の言葉を言葉以上の力で自然現象や大人が共有する畏怖の念が補ってくれました。ヒトは地域の観とも同化して精神的には安定して生活していました。しかし、近代の都市の出現とともに大人の言葉はそのような力から次第に無縁なものになって行きます。それと並行して「模索の時代」の存在が色を濃くして行きます。
言葉を失い、自然現象や畏怖の念からも遠ざかってしまった現代にあって、新たな言葉の世界を模索する営みはかなり困難なことです。芸術的体験がそれを克服して行く道ではないかと思います。学校の役割の大きな一つであると考えています。
前号で取り上げた「少年殺害事件」を思うと、小学校、とりわけ中学校のカリキュラムおよび授業の方法を根本的に見直す必要を痛感します。緊急対策会議などで決議された地域での見回りや声掛けは、一生懸命なさっている当事者の方々には申し訳ないことなのですが、逆効果であるような気がしてなりません。(ほ)
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