>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第52号

 連載・聞き書き     その47

 この3月の夜間中学の卒業式の様子をテレビで見ました。すぐ飛びこみ、入学を決めました。ずっと高校に行きたいと思っていましたが小学校しか出ていないので、どうしたらいいか悩んでいました。今73歳です、順調にいって高校に入学する時は76歳、大丈夫かなとちょっと心配です。
 生まれはテニヤンです。うるおぼえですが30名ぐらいがウージ畑の中にある壕の中に押し込まれていて赤い着物を着ていたような記憶があります。母に聞いたら、アメリカ軍が上陸したので日本人はみんな壕の中に入り手榴弾で自爆しようとしたらしいのですが2度も不発に終わったそうです。最期というので正月の晴れ着を着せたそうです。赤い着物を着た私を先頭に父、年寄りの順で出たところ、父は銃弾をあびて死亡。私も左足足首を打たれ、捕虜になり病院に入れられました。足の遅い母は父と私の姿を見て逃げたそうですが、娘が捕虜になっていると知り山から下りて私の元に来てくれました。ですから今でも左右の足の長さが違います。
 小学1年になった頃船で沖縄に戻ってきました。祖母と叔母たち、母と私の5人暮らしでした。中学に入ったころ母が再婚し妹ができ、それまでは学校に通いながらの家事手伝いですんだのですがこれからは家事全般と母の畑仕事を手伝うことになり、次第に学校に行けない日々が続くようになりました。母から女は自分の名前と計算ができれば学問はいらないと言われていました。
 今の農連市場の先にもう一つの市場があり、そこに野菜を売りにいきます。場所とりが一番大変で元気の良い私は母の変わりにケンカまでして売り場を確保していました。大きなカマスを担いで行くのも私の役目でした。17歳のころからランドリーで働くようになりました。アイロンがけを中心に15年も勤めました。ベテラン、親分ですよ。結婚した相手も小学校しか出ていないので学歴は問題になりませんでした。姑からは仕事を良くするし元気もあるのでユーリキヤー(出来る人)と誉められたりもしたんですよ。子どもがいなかったので4人の子の里親になり、2人を養子にしました。周りからはどうして難儀しながら他人の子を育てるのかと言われたりしますが、保育園の遠足、運動会などとっても楽しかったです。ただ、PTAや婦人会などで意見を言ったりすることがまるで出来ないんです。まして役員の話など出ると恐しくてなりません。うまく言えませんが学校を出ていないヒケメを植えつけられてしまっているのか、字を書く場面などに出会うと頭がまっ白になり、ひらがなすら忘れてしまいます。自分の家だったら話したり、書けることも他人の前ではヒケメがまずでてしまうのでしょう。それは今も同じです。
 入学式でびっくりしました。いつもは時間切れをねらって人の後ろに座るのが常でした。でも今回はみんなの前に座り、一人一人名前を呼ばれ挨拶をしなければなりません。慌てましたよ。自分が人の前に立つなんてありませんでしたから。授業は英語が苦手、苦戦しています。算数はついていけます。初めて字の書き方をきちんと教わり感動しました。きれいに書けるようになるんですね。書けるつもりだった自分の名前を先生から違っていますよと言われて、見てみると私の書き方では他の字に見えてしまうことに納得します。大きな声で歌うことも気持ちがよくコーラスや三線の時間も楽しみです。
 入学して思いがけないこともありました。それまでは私に文句をいうことが多かった息子に嫁が「お母さんの言うことを聞きなさい」と言ってくれるようになったんです。助産師をしている妹も心配して「かりゆし大学」を紹介してくれたりしたのですが私は基礎を勉強するところを探していたので夜間中学がみつかり喜んでいます。夫は結婚の時に母をきれいに看てほしい、そうしたらあんたの勝手にしていいよと言った約束どおり、応援してくれています。仕事がなければ自分も通いたいと言っています。姑ですか、92歳で大往生しました。
 クラスのみんなとユンタク(おしゃべり)するのも楽しいし、帰りのバスが同じ先輩もいますから3年間頑張って通います。
                                        <W・Eさん談>