>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第49号

 連載・聞き書き     その44

 娘に勧められました。最初は年寄りだし、いまさら勉強なんてしてもと思ったのですが、娘が家に一人でいるより勉強したほうがいいというのです。娘の知り合いの子供さんが昼の学校に通っていてとても良かったと珊瑚舎のことを聞いていたそうです。きっと楽しく勉強ができるからと言われて、重い腰をあげました。
 小学校は卒業しました。女4人、男3人の7人兄弟の上から2番目です。父は、女は勉強する必要はないと考える人でした。子供の教育より生活第一でしたし、あの頃は子供の人権なんてありませんから親の言うとおりにするものと思っていました。それに私は病弱でした。骨と皮だけでひどい貧血だったのです。朝目をさまし起きようとすると体が地面に吸い込まれるような感覚に襲われ、無理すると吐き気がします。夜は咳が激しかったり、目も悪く明るい外を見ることができない時もありました。貧しいギリギリの生活ですから病院にいくこともできませんし、親も薬草を煎じて飲ませるぐらいのことしか頭になかったはずです。
 小学校もかなり休みがちでした。あまりに小さく弱いので20歳ぐらいまでは「チャブニ 小さい骨」と呼ばれていて名前を呼ばれたことはありません。それがとても嫌でした。でも病弱とは言え家の仕事は山ほどあり、特に水くみは辛い仕事でした。小3ぐらいからはキッコーマン醤油の空き缶で井戸から家まで何往復もしました。井戸は石の段々を降りて行くのですが、上ってくる時こぼさないようにユウナの枝を蓋にして運びました。畑も芋はもちろん大豆、麦、粟を作り豚の世話もします。芋は特に大切な作物でした。大きな芋は売り、小さなクズ芋を食べるわけですが、皮付きのまま煮てつぶして食べるので芋皮ばかりでした。一度でいいから買った芋を食べたい、そうすれば皮が少ないだろうと切実に思っていました。3食芋ですからね。畑に行くときは芋と味噌をもっていき、道端に生えている方言ではトッナグというウサギの耳に似た草をおかずにします。うちの島では醤油を使うことはあまりなくほとんど味噌でした。まれに祖父が刺身を食べる時も醤油ではなく酢味噌和えでした。
 畑以外では機織をしました。宮古上布という布を織るのです。年寄りがチョマという草から糸をつくり、薄茶色の糸を洗って真っ白に晒し、藍で染めます。細い細い糸です。最初は一反織るのに2ヶ月ぐらいもかかりました。1センチより小さい田の模様を織っていくのは大変ですが唯一の現金収入です。
 二十歳過ぎまで両親のもとで生活をしました。姉が沖縄本島に住んでいてお産の手伝いを頼まれました。親は心配しましたが、どうしても行きたかったです。この小さい世界から出てみたかったのです。姉のところに2ヶ月ほどいて那覇の友達を訪ねたら、「ちょうどいい、自分は宮古に帰るから代わりに仕事をしてくれ」というのです。下宿のような旅館のまかないです。給料は1月5ドルです。安くてもとにかく自活できることが嬉しかったです。
 ただ姉の夫が金を借りにくるのが嫌でした。ひどい時は2か月分前借して融通しましたが一度も返してもらったことはありません。ですから結婚を世話してくれる人がいた時も、その人の性格が一番問題でした。給料は少なくてもいいから酒を飲んで暴れない人、まじめな人が良かったのです。会ってみるとまじめな人で背の高い人でした。私は小さかったので背の高いのがあこがれでした。ただ、子供ができませんでした。子供が欲しい夫に申し訳なく結婚して3年目で自分から出ました。故郷の宮古に帰って体調が変わったので病院にいくと妊娠していると分かりました。でも信じられなくてお腹で子供が動き始めて、始めて妊娠を実感しました。分かれた夫に相談し復縁をしました。結果4人の子供に恵まれました。
 夜間中学校は楽しい。勉強が楽しく入学して本当に良かったです。日本語、算数も好きですが一番好きなのは理科です。想像もしない、考えたこともないことを教えてくれます。昨日は地球は動いているというのです。今まで毎日太陽が動いていると思っていました。それが反対で地球が動いているというのです。本当かねと思いました。そんなに地球が動いているならその上にいる私たちは逆さまにならないのはなぜなのか分かりません。それが理科の時間で分かってくるのです。びっくりです。勉強が楽しいなんて70年余り知りませんでした。
                                        <N・Iさん談>