>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第44号

 連載・聞き書き     その39

 常に50音を教えてくれるところを探していました。塾も探しましたがそんな簡単なことを一から教えてくれるところがなく、習字を習いにいっても歳が歳だからすぐ漢字、漢文をさせられるので意味も分かりません。去年の3月にニュースで夜間中学のことが出ていましたが場所が分からないので、新聞を読める友達に聞いたら分かるよーと言って紙に書いてくれました。
 昭和12年生まれです。国民学校の1年生の時に戦争が始まりました。物資は少なくなっており、配給のセーラー服はくじ引きでしたがはずれ、それ以来制服というものをつけたことがありません。カタカナは習ったものひらがなさえ習いませんでした。住んでいたのはヤンバル(北部)だったので食べるものに困ったことはありませんし、戦争でケガをした人や死んだ人も見たことがありません。戦争中は海のそばの壕で暮らしました。海はアメリカ軍の艦隊で埋まるようでしたし、夜は照明弾で昼のように明るかったです。艦砲射撃の弾は山を狙うので海岸にいた私の一家は無事でした。ゼロ戦が何機も艦隊に向かって自爆しようとするのですがほとんどは海に打ち落とされてしまうのです。兵隊さんの気持ちを思うと辛かったです。一度だけ3隻並んだ艦船の真ん中にゼロ戦が体当たりし、艦船が燃えました。もう嬉しくて壕から飛び出て拍手をしました。米兵の上陸が始まり、何度も日本語でなにもしないから投降するよう言われ、みんな手を挙げて壕を出て、今帰仁で捕虜になりました。その後大浦湾の山の上に移されました。そこは水場も遠く、よもぎ、カンダバー(芋の葉)、桑の葉さえないところでした。両親、動けない祖父母、私を頭に6人の兄弟の10人家族にとって配給では到底足りません。名護近くの川原が米軍のチリ捨て場になっていると聞き、出かけるようになりました。いろんな子どもが拾いに行っていました。食べられそうなモノがあれば川で洗って食べ、残りものを持って帰ります。そうしているうちに今でいう賞味期限切れというのか、捨てるべきものを米軍の兵隊が子どもたちに配るようになったのです。男女別々に並ばされ、食べたこともない、見たこともないような大きな缶詰、バター、チーズ、ソーセイジです。毎日通いましたよ。
 しばらくして本部の家に戻されました。学校も始まっていましたが、紙もエンピツもなく算数は石を使い地面に文字を書いて勉強しました。でも私はそれでも学校には行けません。父が魚を捕り母が売りにいきます。私は家の仕事と兄弟5人の面倒をみます。時々兄弟を背負い学校に行ったりもしましたが、泣くと教室から出されるし男の子が下の兄弟をいじめるので行けなくなりました。10歳の時、叔母を頼り那覇に出ました。子守は嫌いなので水売りをしました。米軍相手に奄美大島からたくさんの女の人が来ていて、その人たちに売るのです。それを元手にバーキー(沖縄のザル)を首から下げ、そこに歯磨き粉、歯ブラシ、ハンカチなどの小物を乗せ平和通りの路上で売り歩きました。どれも一つ10円です。警官が取り締まりに来ると走って逃げますが、一度も捕まったことはなかったです。ただ、逃げる際ザルから品物が転げ落ち拾う暇がないので、あまり儲かりません。その頃壷屋に青バスが登場します。考えてみかんやりんごを売ることにしました。セメント袋を使って一斤はいる袋を作り、果物を入れてバスの窓から売るのです。12,3歳でしょうか。まだ波の上神宮が原っぱでそこにすべり台がありました。唯一の楽しみはこのすべり台に乗ることでした。もっと金になる仕事を探そうと軍に入ろうと思い嘉手納に向いました。順番が来て経験もなく英語ができないと分かると3週間コースのメイド学校を勧められましたがバス賃がなくダメ。そこで以前バヤリースのまかないをしていたことを女中の経験とし、英語は話せないが聞くことはできると言うと、その場で仕事が決まりました。ウソをついた手前一生懸命努力して3ヶ月でなんとか日常に使えるぐらいに英語が上達しました。でも、それ以上は上達しませんでしたが。隣の家のメイドをしていた石川の人が言うのは米軍の飛行機が落ちて兄弟が殺され米軍が憎い。あんたも英語なんて覚えることなんかない。こんなところよりもいい先があるから行こうと誘われるままに那覇に来ました。この人にぜひにと言われて瀬長亀次郎の演説を聞かされました。この人に付いていけば学校に通いタイピストになれるはずでしたが私にはなぜかそんな話は巡ってきませんでした。
 オロクの軍に行き直接交渉をしました。事務所に行けば学歴、縁故、美人等が考慮されるからです。食堂勤務からクラブハウス、将校クラブとランクを上げていきました。この当時はほしい仕事が分かっていて、意地とやる気があれば学歴は関係なく仕事がやれたのです。復帰後はそうはいかなくなりました。
 結婚し4人の子供を育てると、自分の無学が悔しくなりません。ハガキ1枚書けません。学校に通っていない、字を書けないことはいつまでも心に突き刺さっています。死ぬまでには書けるようになりたいです。夜間中学は素晴らしい。先生も優しいし、仲間がいることが一番素晴らしい。一人では出来ないことです。自分がきれいに字をかけているのかどうか仲間を見れば分かります。励みになりますよ。足が痛いけど休むのはいや。通い通します。
                                        <R・Aさん談>