>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第43号

 連載・聞き書き     その38

 お昼のラジオを聴いていたら戦争で学校に行けなかった人の学校があると言っているんです。エンピツが間に合わなくて電話もわからん、学校の名前もわからん。その後もラジオを聴いていたけど、その1回だけしか放送しないわけ。役所に問い合わせたら自分で調べなさいと言われたけど、調べきれんのです。そこで役所の救済をうける課に行って話をしたら8階の義務教育課だと教わって、やっとここ(珊瑚舎)が与儀にあると分かった。
 68歳まで無学できました。戦争で父は兵隊にいき、それっきりです。母は私が5歳ぐらいの時に弾で死にました。兄弟がいたような気もするのですが記憶にないんです。まったく一人でした。側にいる大人をお母さん、お父さんと呼んでくっついて歩きまわっていたのです。その後、孤児院にも入れず10年近く7〜8名の育ての親というような人たちに引き回されました。今思えば、小さいながらも労働力としてあちこちをたらい回しにされたんです。久米島にも行きました。名前もサチコ、ヨネコ、サチエ、ヨシエとその親ごとに名前を変えられ、自分の本当の名前を忘れそうでした。それでもいつか、だれかが学校に歩かせてくれるだろうと思い必死で働いたんです。でも、10歳のころ誰も学校にやってはくれないと分かったときは悔しいというか残念で首が横に曲がってしまうほどでした。その時の育ての親はこの子はなんで急に首が曲がってしまったのかと不思議がるのですが、自分の気持ちを打ち明けることなんてできません。カマボコ屋で働くようになりました。イラブチャー(ブダイ)やサバ使ってつくります。一番大変なのは氷運びです。2メートルもある塊を運ぶのは苦労ですよ。またアチコーコー(熱々)のカマボコを頭に乗せて売りにいくのですが、熱すぎて頭が禿げてしまいます。糸満から歩いて那覇まで来て、「石川行き」の「川」の字だけが分かるのでバスに乗ったらコザ十字路まで行ってしまい、そこでカマボコを売り歩いたこともあります。カマボコ屋のお姉さんにひらがな、カタカナの50音図を書いてもらい、一緒に声をだして覚えました。「あいうえお、かきくけこ」はもちろん、「あかさたな、はまやらわ」もまだ言うことができます。でも漢字は難儀でした。結婚してからですが、どうしても運転免許を取らなくてならなくなり、2ヵ年かかり5回目で受かったんです。漢字が多くて意味が分からず立ち往生しいしい頑張りました。5回目は一番早くでき嬉しかったですよ。子連れで魚売りの商売していた時、子どもを道端で寝かしていたら子どもを預けなさいと言われ始めて保育園を知りました。よそ様は何万もする時、私は3,000円でしたから、一番貧しいランクだったはずです。
 30年前ぐらい、どうしても学校に行きたくて役所に相談にいったら弁護士のような人がいて、自分で勉強しなさいと言われました。小学校にも入学していないのにアキサミヨー(とんでもない)と思ったけど、どうしようもないので本屋に入って初めて辞書というものを知りました。言葉でいっても通じないかもしれないけど、無学ということは暗闇、真っ暗ということなんだよね。やるべきことは必死に努力してみんなやってきた。人間としてしそこなっているのは学校に行くということだけなんです。もの心ついてから、そのことがくるしい。こんな哀れは残るんです。10歳から待っているんですから。  入学が決まったら子供たちも喜んでくれたね。息子はアキサミヨーと笑い、娘は帳面やバインダー、下敷きなど全部用意してくれました。入学式も嬉しかった。ご馳走があんなに出て一杯食べたよ。カチャシーを30分も踊ったのは自分へのお祝いだからね。校長先生にお父さんって言ったら、そんな大きな娘はいないよって言われた。でもね、今生まれた、始めて7歳になったんだという気持ちなんだよ。字をゆっくりでもいいからきれいに書くのが嬉しい。ほんと嬉しい。昨日理科で台風と温暖化について習った。漢字が難しいけどカナをふってあるから大丈夫。どの科目が好きか嫌いなんてない。みんな好き。どんなことがあっても引けない。ここの学校に来ないわけにはいかないんだよ。それだけ無学のままのこの60年間は真っ暗だったんだ。
                                        <K・Aさん談>