>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第42号

 連載・聞き書き     その37

 友達から夜間中学があるってよと聞いてはいましたが、探しきれなかったのです。1年前ここの卒業式が新聞に大きく載りました。それを切り抜いて探しました。たくさんの人が集まりいろんなことを知っている銀行に行ったのですが分かりません。赤十字の看護婦さんが那覇署の近くらしいと教えてくれて、以前その近くで弁護士事務所を開いていた奥さんに聞いたら分かったんです。歩いて10分程度の近くにあったなんて。後2人しか空きがありませんよという時に申し込んだんです。やっと学校に歩けると一安心しました。
 父は兵隊にとられ、早くに戦死しました。小学3年の秋に大規模な空襲があり南風原に移りました。年老いた祖父母、母と兄弟3人と長女の私です。下の妹が2歳でした。この家族ではヤンバル(沖縄北部)に疎開することもできず、結果最悪の戦場になった南部に移ったのです。激しい戦闘と一緒に南へ、南へと逃げ回りました。途中祖父ははぐれて行方不明になり、母は流れ弾で足の骨が見える怪我をし、歩くのが困難でした。私が下の妹を背負いながら進みます。水は井戸にカンカラを垂らして汲み、食料は他人の畑に残っている芋を漁ったり、ソテツの実を食べたり、最後のほうは木の葉っぱまで食べました。よその大人にくっついて芋探しに行くのですが、子どもは足手まといになるからでしょう嫌がられました。食べ物を持っている兵隊もくれるはずもありません。あの人たちも国を守ろうとして来て、想像もしない苦労をしたと思いますよ。知念で捕虜になりました。2歳の妹は栄養失調で木の枝のような手足になり、米兵に連れられていきそれっきり会うことができませんでした。ずいぶん探したのですが見つけ切れません。
 その後与那原に住むようになりました。夜は一家の食べ物を探し、海水を煮詰めて塩を作り、半日歩いて薪を拾う毎日で学校のことを気にしている暇なんてなかったです。世の中が落ち着いてきて、もともとあった地所がはっきりしたので弟と一緒に自分たちで畑をやり始めました。大きい芋は売り、小さい芋は自分たち用です。那覇まで売りにいくのですが、安くても途中で買ってくれる人がいると儲けがなくても嬉しかったです。14歳ごろに一度菓子屋に奉公に出ました。お金は入るのですが家のことが出来ず、みんなの暮らしが成り立たず一ヶ月で辞めました。それからは畑仕事中心です。
 21歳ごろ、母の知り合いから結婚を申し込まれました。その人は大学まで出ているので無理だと断りましたが、その人とその人のお母さんから「学校は学校、人は人。あんたを見て結婚するんだから」と言われ、納得しました。6人の子供はみんな大学まで出しました。
 子どもが自立して、ここ10年ぐらい今からでも勉強をしたいと強く思うようになりました。やっとその場を見つけました。夫は「100歳になっても、あっちに行くまでは勉強したらいいさぁ」と応援してくれます。50音をきれいに書くのが夢です。とっても楽しいし、おもしろい。
 なんでも初めてで新鮮です。本を開くのも、エンピツを削るのも楽しい。先生から目が離せないんです。家計を切り盛りしているんですから計算はできますが、それを式にしていく、式の書き方すら楽しい。昨晩も帳面を広げ体育で習った空手の型を夫に見せました。学校で習ったことは家に帰っていろいろ話すんですよ。それがまた楽しい。
                                        <Y・Iさん談>