第41号
連載・聞き書き その36
小学校は卒業しています。中学は途中で辞めました。今になって高校に進みたいと考えていた矢先、知り合いが夜間中学に通っていると聞き、それならば自分も基礎から勉強しようと入学を決めました。
9歳の時までサイパンにいました。戦争が始まる前はのどかな土地で土もよく肥えていて芋はもちろんですが、かぼちゃ、まめ、すいかなどほとんどの作物が採れました。バナナ、パンギ(パンの木)、タピオカもよく食べました。両親と祖父母はサトウキビを作っていましたが、半農半漁で魚も豊富でした。
学校に兵隊が戦争のフィルムを持ってきて夜になると上映会を開いていたので、戦争の様子は知っていましたが、あの頃のことですから“勝った、勝った”のニュースでした。そのうちに学校は歩兵師団に接収され、山の中の広場で先生が勉強を教えるようになりました。チャッチャ尋常小学校と言い、120名ぐらいの生徒がいました。米軍の艦船が島をぐるり取り囲むようになり学校どころではありません。両親、祖父母、兄弟4人で山に逃げ、夜になるとアンマク(ヤシガニ)を捕り飢えをしのぎました。その時は貴重な蛋白源です。
米軍は一箇所を集中的に攻撃し、叩き尽くして日本人がいなくなると上陸してきます。山の中にも逃げ出した兵隊が押し寄せるようになりました。日本軍が配備された最初のころ、いざという時の兵隊用の緊急食料が一般家庭の倉庫に仕舞われてありました。乾パンや缶詰などが幾ケースも運び込まれたのです。その食料を民間人も取り合って、あっというまに食べつくした後は米軍に追われるように前に前にと逃げるしかありませんでした。前方は大きな岩が連なる岬、いわゆるバンザイクリフです。私たちは一緒にいた祖父の機知で生き延びたと言ってもいいと思います。
祖父は昔中国やソ連との戦争経験があり、敵の前を逃げたらダメだ、なんとしても敵の横か背後に逃げなければならないと言い、ある家族と共に敵が追いかける横に回りこんで山に潜んでいました。多くの人々は前へ、前へと逃げて、あのような亡くなり方をしてしまったのです。拡声器で戦争は終わった、日本人は出てくるようと放送があり木のつるをつたって降りて、捕虜になりました。初めて間近に米兵を見て、びっくりしました。目の色が違う、背が高い、銃の掛け方も日本軍とは反対。有刺鉄線で囲まれた収容所に入れられ、見たこともない缶詰や果物が配給になりました。鉄線の向こうから米兵がお菓子をくれます。私たち子どもは争ってギブミー、ギブミーと叫んで菓子を取り合いました。米兵はその子ども達の姿を見て楽しんでいるんじゃないかと感じ、悔しかったです。米軍の装備は日本と天と地の違いがありました。戦車の大きさ、海上トラックのすごさ。数においても比べものになりません。こんなに物資の豊かな国とよく戦争をしたものだと子供心にも思いました。
祖父母は亡くなりましたが、家族6名は傷一つ受けませんでした。しばらくして船で沖縄の泡瀬に帰り着きました。母が真和志の出身でした。戦争直後は真和志の人々は今のひめゆりの塔のあたりにおり、私たち一家もそっちに移りました。沖縄に着いて印象的だったのが壊れた家の屋根が瓦だったこと。土が畑を掘り起こしたかのような塊、粘土質だったことです。サイパンは屋根はトタンで、土は手で触るとホロホロほぐれるような柔らかさでした。小3で学校に戻り、中学に進んだのですがイジメにあい、親に怒られたものの次第に学校から遠のいてしまいました。
今になって学問を途中で辞めたことを悔いています。新聞がすらすら読めるようになりたい。英語ができるようになりアメリカ人と対等に話せるようなりたいですね。授業は今はやさしいですがそのうち難しくなるから基礎をきちんと身につけ、いずれ高校に進みたいと思っています。
サイパンに住んでいた人たちで「南洋帰還者会」を作っており、毎年6月1日には飛行機をチャーターして慰霊祭をおこなっています。それも次第に老齢化で人数が少なくなっていますが、自分の生まれた土地と歴史を子や孫に教えていこうと考えています。 <A・Tさん談>
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