第40号
連載・聞き書き その35
友人から沖縄にも夜間中学があるよと聞きましたが、自分は無理だろうなと思っていました。というのは昭和30年に東京の夜間中学に申し込んだことがあります。入れると思っていたら小学校を卒業していないから入学できないと断られたからです。今は外国の人も多く大丈夫なようですけど。去年の慰霊の日6月23日にテレビで夜間中学の番組があると知り、例年なら魂魄の塔に行くのですがテレビを見ました。その中で小学校を卒業していない人もいるとあり、ここならと考えたのです。珊瑚舎まで下見に来て、電話番号をひかえ友人と一緒に見学をさせてもらい入ろうと決めました。
小学1年を終わった時に、売られました。ハイスクールまで通わせるという言葉を信じて54歳の女の人についていきました。実際はこの女の人がどこからか仕入れてきた様々な物を売る仕事でした。小学生ですから店とも呼べないような道端に板を並べただけの空間で、文房具やレポート用紙などを売るのです。この人は台湾との密貿易に関わっているらしく、よく警察に捕まるので弁当の差し入れにも行っていました。当時は一斗缶におがくずを詰めその中に紙を入れて煮炊きをしていました。私の唯一大事にしていた1年生の成績表とノートをその焚きつけの紙にされて泣きました。那覇の壺屋に移って生地屋を開くことになりましたがなんだか怪しげで9歳で夜中に逃げ出しました。姉が世話になっていたおばの家です。ここで学校に行ったのですが1年しか終えていないので2年に編入するしかない、それがきまりだと言われました。なにより落第という言葉が子ども心にも応えました。私がいったいなにをしたというのか、大人を信用するもんかと思いました。学校を出なくてもいいところにいってやると誓ったのです。その後は子守り奉公に出ました。叔母と奉公先の間でどんな約束があったのか知りません。借用書しか見ていません。どんなに正直に必死に働いても一銭も私のものにはなりませんでした。奉公先では子供たちと同じように扱ってもらい、良くしてもらいましたが、ただ学校だけは行けませんでした。後になって、ここのご主人が教育に貢献したとして勲章をもらったと新聞で知りました。おめでたいと思うと同時にこういう人でも自分の身近に小学校に通えない人間がいることが見えないということも分かりました。
17歳の時、店員に応募して東京に出ました。下町で隣近所のみなさん親切でした。隣の床屋さんがこれからは職人になったほうがいいよと声をかけてくれて理髪学校に入るのに学歴証明を取り寄せようと沖縄に手紙を出しましたが役所からはなんの返答もありませんでした。しばらくして、神奈川の叔父さんを頼りに移り住み会社員になりました。勤める時は真っ先に、私は学校を出ていませんと告げます。ある会社で食品の水分検査を担当することになり、多少の化学の知識が要求されます。組長にこんなことは小学4年の化学だと言われ、思わず小学1年しか出ていませんと言い返したこともあります。或る時、映画を見に行ったら同僚がスクリーンを指して、うちの会社だと言ったことがありましたが、私は自分の会社名も読めませんでした。でも、職場は人間関係に恵まれ、いい人ばかりでした。仕事もまじめにやればやるほど良いポストにつくことができます。
学歴より読み書きが出来るようになりたいと長年思ってきました。資格は学歴で決まります。人の努力は認めませんからね。女優の飯田蝶子が焼き芋を買いにいくのが楽しみ、包んである新聞紙を読むことができるからと語っています。その頃はフリガナが振ってあったんですね。この気持ちがよく分かります。「おしん」は苦労したと思いますが読み書きは教えてもらっているので羨ましいですよ。私も新聞を読むのが好きで、分からない言葉はあるのですが前後の脈絡を合わせて読んだり、ダレかに分からない言葉を聞いて想像で繋げて読んでいきます。ただ読むんじゃなくて自分の身近な人や事にあてはめて読むと分かりやすいです。夜間中学に入ったら辞書の引き方を教えてくれるので楽しみです。
夜間中学の数学の先生が新聞で「教えるのではない。一緒に考えることが勉強。ここではそれができる」と語っており、こんな先生に教わりたいと入学しました。
<E・Iさん談>
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