第39号
連載・聞き書き その34
夜間中学は新聞でしりました。3年ぐらい前の新聞ですが、珊瑚舎の昼の生徒達がヤチムン通りの前で並んでいる写真が印象的でした。中学を卒業したいというより今の自分を変えたいという思いが強いですね。
6人兄弟の長女です。下の3人は父が違います。戦争中に家族の男手は祖父を除いて亡くなりました。その祖父は空襲で亡くなり、残された家族は昼は墓の中に隠れ夜になったらリヤカーをひいて歩くをくり返しヤンバル(北部)に疎開することになりました。那覇の安謝から見る海は軍艦で埋まっていました。普天間の壕にたどり着いたら満員で、出て行けと言われ、石川まで山づたいに逃げました。名護を通り決められていた塩屋まで行ったのですが、同じ町内の人は誰もいません。艦砲射撃が激しくみんな山に逃げた後でした。戸も畳もない家に身を寄せていると、そこの主でしょうか「勝手に他人の家に入るな」と祖母の頭を鎌の柄でゴツンゴツンと叩くのです。全財産を枕にしていた祖母はすべて盗られて、一文無しになりかなりのショックを受けました。ただ母は強い人で浜に打ちあがっていたドラムカンを利用して私と塩を作り、山に逃げこんだ人々に売っていました。塩屋の収容所に一端入り、その後南部の米須に移されました。真和志地域の人はみんな今の姫百合の塔があるあたりに集められたのです。あの辺は激戦地でしたから死体がごろごろあり、大人達はカマスに遺骨を一体ずつ入れて運び、「魂魄の塔」を作ったのです。終戦後は那覇に戻り母は懸命でした。飴や酒を作り最初はカナダライに入れ路上で売りましたが、やがて棚のある店を作り、銀行からお金を借りて人を雇って洋裁店を始め、午前中は幼稚園の先生を夕方からは首里に魚を売りに行くなど逞しい人でした。その内新しい父と知り合い兄弟が3人増えました。その父は他に家庭のある人でした。母は意にかえさないのですが私はそのことが恥ずかしく顔を上げて外を歩けません。弟の世話などが忙しく中3の時に学校から足が遠のき戻ってみると数学が分からずテストが0点でした。ショックでした。その後は今でいう登校拒否ですね。家にこもっていました。子どものころから体が弱く、父、叔父、叔母が結核で亡くなっており、結核は遺伝と信じていましたから20歳まで生きられないと思っていました。戦争で紛失した戸籍を復活させる際、17歳で私が戸主になり、そのことも重荷でした。どうやってみんなを食べさせていくのか悩みました。相変わらず昼は外に出られませんから、夜間の洋裁学校に通うことにしました。半年ほど通いこれで食べていこうと決心がつき東京の洋裁学校に行くことにしました。母と父のことが恥ずかしいと思っていましたから沖縄から出たい、自立したいと強く感じていたのです。洋裁学校から中学の卒業証書を送るよう言われましたが、戦争のどさくさで無くしたとウソをつき誤魔化し、師範科まで2年通いました。中学を出ていないこと、沖縄出身であることが辛いこともありました。特にアパートを見つけるのが大変でした。沖縄の人が同郷人に貸さないことが不思議です。一度沖縄に帰った後もう一度東京に出て洋裁店に勤めましたが、どうしても寒さに耐え切れず帰ってきました。結婚をし、子供を持ちましたが、40代後半に離婚、更年期、子どもの反抗と様々なことが続き、自分の生き方が間違っていたのではないかと悩みました。その頃からです、自分の中に中学生のままの自分がいる、成長しきれない自分がいると分かり始めたのは。中学時代に母が次々と弟や妹を出産し、特に弟が生まれた時の母に喜びようを見て、母に捨てられたという思いがいつまでも残っているのです。体が弱いことも常に自殺願望につながっているような気がします。そんな自分をどう立て直して行こうかと迷っていました。歳ですからこのままでもいいじゃないかと思う一方、毎年3,4月になると母との確執がよみがえり、このままではいかんと夜間中学に申し込みました。本当に勇気が必要でした。
夜間中学に通うようになって、ずいぶん変わってきたと思います。入学してすぐ膝と手を悪くして休まざるをえませんでした。今までの私なら辞めたはずですが今回は粘っているんですよ。学校のことがひっかかっているせいか、毎年春になると憂鬱だったのですが今年はありませんし、ぎくしゃくしていた母との関係もよくなりました。この頃思うんですが数学の応用問題や日本語の時間でやったことが社会の人間関係に役に立つ、コミュニケーション能力を育てる力になっているのではないかと。卒業というより心の中の問題をどうしていくかが課題です。あと1年ありますが、自分がどう変化するか楽しみです。
<F・Sさん談>
戸惑いと不安を感じながらの入学式でした。入学して驚いたのは私より年齢の高い方もいらしゃって、少しほっとしたのが実感です。
私が1歳ちょっと過ぎた時に父が他界し、その後は母一人で4人の子供を育てなければなりませんでした。母は現金収入をえるために男がする道路を作る仕事につき、毎日きつい肉体労働で、疲労と心労で病に倒れてしまいました。それは私が5年生の時でした。その後看病のため学校を休学し、家の仕事を手伝うようになりました。その時、一番苦労したのがご飯炊きでした。ご飯を炊くにも今のような便利なガスコンロとかは無く、庭に石を積み上げて、その上にお鍋をのせ、まきを入れて火をおこすのですがうまく火がつかず白い煙に涙が止まりません。その様子を見ていた大人がよく手伝ってくれたものです。しばらくしてご飯炊きも上手になり、おいしくできた時にすごく嬉しかったのを覚えています。母は看病のかいもなく翌年の8月に亡くなりました。私は目の前が真っ暗になり、泣きながら途方に暮れる日々が続きました。忙しさの中に月日は流れていきます。その時でも私はどうしても学校に行きたくて、2年のブランクがあったのですが2歳下の子供たちと一緒に学んでいました。が、その喜びもつかのま1年とは続かず私を支えてくれていた祖母も病に倒れ、また休学することになったのです。6年生の多感な時期に両親の愛情を実感することなく12歳の私は、食べて生活するために働き始めました。初めは子守りからスタートし、店員、洋裁の縫い子などし、最終的に落ち着いた仕事が美容の仕事でした。私も人並みに結婚し4人の子供に恵まれ、今は4人とも独立し、一安心といったところです。
私が幼少の頃に叶えられなかった夢を実現させてくれる。そこが珊瑚舎スコーレです。学びたい気持ちが大事ということを持つ仲間との出会い、共感する心、学ぶ喜びが自分自身を豊かにすると信じています。これからは自分を隠さなくてもいい。ありのままの自分でいいのです。
<K・Iさん談>
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