第38号
連載・聞き書き その33
18年度の卒業生を知っていました。ちょいちょい会っていましたが新聞で卒業のことが記事になるまでは夜間中学に通っているなんて分かりませんでした。相談するとちゃんと教えてくれるから行ったほうがいいと励ましてくれました。
8人兄弟の6番目です。中学は卒業しました。ただ小学校のころから勉強についてゆけず教室の隅に隠れるようにいました。卒業後は県庁の給仕になりましたが、昭和19年の10.10空襲を経験して、国のためにと挺身隊に応募しました。飛行機を作ってお役にたちたいと思ったのです。県庁の職場を離れる時、記者クラブの前を通ると記者さんが記念に写真を撮ってくれました。後日それが新聞に「勇ましい乙女」として載っておりびっくりしました。11月にポンポン船に乗って九州に向かいましたが小さい船のため船酔いがひどく、空襲が来ても起き上がれずこのまま船と一緒に沈んでもいいと思ったほどです。熊本に配置になったのは私一人でした。預けられたお寺の奥さんが私を気に入って、そこの手伝いをしながら沖縄の混乱が収まるまでお世話になりました。沖縄が全滅したという噂は入るもの両親とは連絡がとれません。しばらくしてある人から親はヤンバル(沖縄の北部)にいると聞かされました。熊本から久場崎(復員した人々が最初に寄港する港)に戻りトラックでヤンバルに向かいました。両親に会うことができましたがそこでは生活が出来ず、那覇に移りました。しかし家は無く、テント小屋を配給されて暮らすようになりました。まもなく軍に勤め始めました。私がいた部署は軍の道具を修理するところです。ちょうど朝鮮戦争、ベトナム戦争と続き野戦で使ったテント類を工業ミシンで繕う仕事です。米軍の兵隊とも慣れてくると言葉は通じなくても気持ちは分かり合えるようになり、無理なことがあったりするお互いに言い合ってケンカができるまでになりました。
結婚し、子供にも恵まれました。年をとるごとに学問の必要を感じます。字を書けないのでせめてと辞書はいつも手元に置いてあります。入学することを息子に言ったら「今頃からなんで・・」と言うので「今だからさぁ」と言ってやりました。勉強ができる所を探しも無いんですよ。ですから夜間中学に出会って幸せです。必要のないものはロッカーに置いていっていいですよと言いますが、少しでも家で見直しができるように毎日全部持って帰ります。帰ると息子に今日習ったことや間違ったことを話します。この学校は先生がすばらしいと思います。分からないことを分からないと言えるんです。そうすると先生はすぐ分かったらボクたちも困るから、ゆっくりでいいですよと笑ってくれます。どこを復習すべきか分かるので授業への注文はたくさんしなさいよと。かつての米兵とのやりとりを思い出します。昔もこんな先生っだら、こんな教え方だったらと思うんです。最初は夏までもつかなぁと不安でしたが、今はクラスで教えあっているので頑張れそうです。点取り競争じゃない、それが楽しいです。18名の同級生としての輪があります。素顔でいられます。だから1日でも休むと苦しいはず。毎日仏壇の主人に夜間中学行に通わせてもらってありがとうと伝えています。主人の年金があるから通えるんです。今まで内緒にしてきた友達にも夜間中学に通っていると堂々を言えるようになりました。大雨のために乗ったタクシーの運転手さんにも「この青い看板が夜間中学ですよ。平等で学びたい人のための学校ですよ」と宣伝しました。<T・Aさん談>
夕刊で見ました。ここの生徒さんが泊高校の夜間高校に進学したニュースです。なんでもっと早く気づかなかったのかと泣き顔をしていたはずです。同居している長男がパソコンで調べて電話をし、すぐ申し込みに来ました。
5歳の時に父が亡くなりました。母と弟2人です。小さい頃から水くみが大きな仕事でした。母が豆腐を作って売っていました。ですから生活に必要な水以外に豆腐用の水は良い水でなければ美味しくないということで、かなり遠くまで行きます。豆の買出しも自分の仕事です。朝早くから畑仕事があり、嫌がると母が学校のカバンを薪の山の上に乗せてしまうので必死です。朝ごはんも食べずに学校に駆けつけ、休み時間の合い間に家に戻り芋を1本つかんで取って返すというありさまでした。帰れば家の仕事と子守りです。弟を抱っこしながら子守唄を唄いました。今でも唄えますよ。よく唄ったのは「あんたの母さんどこ行った、べーべー(ヤギ)のおいしい草を刈りにいった」と「じんじん(蛍)」の歌です。勉強は大好きでした。負けず嫌いでいいかげんにできない性質です。母は学校より家の仕事第一という人で、昔の親は子供をこき使ったなぁと思いますが、そんな母でも学校の成績が一つでも下がると怒るのです。1944年戦争の影が大きくなり8月に上の弟が学童疎開することになり対馬丸に乗り亡くなりました。下の弟はその後、軍艦で宮崎に疎開しました。たった5日間の差です。私も母と一緒に翌年の2月25日に疎開しました。もし、死ねば海の底にいる弟に会える、無事疎開できれば宮崎にいる弟に会える、という思いで乗船しました。
熊本の大牟田に着きました。飛行機の翼を作る勤労奉仕でしたが空襲がはげしく食べるものもなく、かぼちゃの葉っぱを食べる毎日でした。16歳の時に住み込みの下働きでしたが理容店に働きにでました。教えてもらうというより見て覚えるというやり方で鋏、剃刀の使い方、研ぎ方を習いました。同い年の男の子がいて、生来の負けず嫌いのため男に負けるもんかと頑張り彼より腕が上でした。17歳で5日間の講習を受け、理容師の資格を取りました。沖縄では米軍が強姦するという情報があり、その後も熊本にいました。同じ出身地ということで家には沖縄のいろんな人が茶のみ話に集まってきました。情報が入らない時代ですからみんな不安だったんだと思います。19歳の時、母が久米島の人は「まくとっなむ(真面目で正直)」で一番上等と結婚相手を決めました。まだ世の中が落ち着かない時代でしたが母はその人が当時住んでいた兵庫県まで出かけ、下宿屋の主人に人柄を確かめて決め手くれたのです。親だなぁと思います。
沖縄に戻り、久米島に1年住んでから本島に移りました。3男でしたから2人で一から築き上げて、主人は船大工から建築屋に、私は理容室を開き5人の子供を育てました。孫が17名いますよ。子供がちいさい時は本を買い、負けるもんかと思って教えましたが、いつでも自分の中断した勉強が気になっていました。
夜間中学は英語以外の教科はついていけます。英語を習うのは初めてなので難しいです。でもクラスでは私が数学を教えて隣の人が英語を助けてくれるので、中学の卒業資格を取るまでがんばります。
<O・Yさん談>
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