>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第37号

 連載・聞き書き     その32

 去年、娘からお母さん夜間中学があるよ、行ったらと言われていました。この歳になってと言うと娘が目が悪いからねぇ、無理しないでもいいよと言うのです。今年になって夫とテレビを見ていました。テレビはおもしろくないし、外を見ると雨がしょぼしょぼ降っています。あーこんなして自分の人生が終わっていくのかなぁと思っていると1本の電話がありました。昔の同僚からです。この人は積極的な人で通信高校を卒業しています。彼女からも家族の面倒を見るのもいいけど、もっと自分のために時間を使い輝きなさいよと言われていたのです。その彼女が「夜間中学に電話をしたら今年は定員に達しているので来年の予約を受け付けているそうよ。予約申し込みをしたら」と言います。そうかと思って電話をしたら運よく一人が辞めて空きがあったので入学しました。
 小学校は卒業していますが、ほとんど通っていません。5歳のときに戦争がありました。父は区長だったので私と兄嫁が近所の人達とヤンバル(沖縄北部)に疎開しました。山の中には食べる物がなく、ソテツばかり食べました。一緒に行ったオジィやオバァが「この子は故郷に無事戻ることが出来るかねぇ」と心配するほどソテツの中毒で体がむくんでいました。足などは押すと元にもどらないのです。終戦になって両親が迎えに来たときは涙が止まりませんでした。子どもごころにも生き延びられないのではと不安でしたから。
 9人兄弟の末っ子です。3人の兄は戦死、姉たちは結婚し、私が年老いた両親の元に残ったのです。百姓をしながら母が豆腐を作り、私が売り歩きます。豆腐10丁(木箱で1丁が1キロぐらい)をまな板のような板に乗せて頭でかつぎます。小学生としては精一杯の量です。このままバスにも乗ります。ある日バスを降りて歩こうとしたら発車したバスと接触して豆腐をひっくり返し、売り物にならなかった時があります。その場に居合わせた与根の人が「とうとうねぇねぇ、今日は自分が買おうね」と全部買ってくれました。勿論半額ですが本当に有り難かったです。
 縁あって結婚し3人の子供が授かりました。ただ生活は大変で住んでいる家は雨漏りがひどく、台風が来るとぐらぐら揺れます。なんとかしようと軍に勤めました。米軍の将校や民政府の役人だけが出入りできるクラブハウスで、ウエイトレスです。メニューはすべて英語です。最初はメニューの番号と手まねで対応していましたがそうもいかずヘッドウエイターにメニューを一冊借りて必死で覚えました。少し落ち着いたかなと思ったころ、夫が45歳で両耳が聞こえなくなり仕事を解雇されました。軍の飛行機の離発着の仕事です。医者に診せると脳の神経がやられているというのです。賠償金といったことを云々する時代でもなく、結果泣き寝入りということになりました。今もそのままです。それからは朝は新聞配達、昼はホテルのベットメーキング、午後から夜はお土産物屋と3つ掛け持ちで働いてきました。37才の時、トイレ掃除の洗剤を誤って目にかけてしまい両目の視力は0,03ぐらいです。子育てをしながらでしたがいつも前進、前進と心の中でつぶやいて苦労を他人にみせたらいかんと思ってやってきました。だからでしょうか、夜間中学の音楽の屋良先生のような明るい姿、形が好きです。苦労はしまってふくふく見えるのがいいですよね。65歳で職場の健康診断で不整脈と診断され手術をし、ペースメーカーを入れています。ですから門から教室までがとても遠く感じます。下から見上げて、息を整えて47段の階段を登るんです。学校はほっとします。自分のための時間ですから。クラスには先輩もいて勉強する姿を見ると励まされ、自分も頑張ろうという気になります。先生方も漢字にふりがなを付けて板書するなど助けてくれます。3年間通って漢字がすらすら読み書きできるようになったら次の自分の先を考えます。 <S・Fさん談>