>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第36号

 連載・聞き書き     その31

 夜間中学校のことを新聞で見ました。主人がこういう学校もあるよと教えてくれました。いいなぁと思ったのですが小学1年も出ていないし机に座ったこともない自分ですからついていけるか不安でした。そもそも学校に通うようなことが自分にあると思えないのです。それでも面接だけでもと主人が電話を調べ、連れてきてくれました。面接の人が学校が始めての人も通えますよと言ったので俄然来る気になりました。  離島の田舎で生まれました。母の顔も分かりません。母と私の2人暮らしだったとか。畑仕事の無理がたたって亡くなったと後で聞きました。私が3歳にもなっていないころです。海でアサリを採っても必ず近所に配って歩く優しい人だったそうです。母方のおじさんに畑と一緒に引き取られることになりました。おじさんは優しかったのですが、おばさんは厳しい人でした。私は面倒の種だったのです。今考えれば自分の子供さへ養いきれないほど子供がいるところにさらに増えるわけですから、屋根の下に置いてもらえるだけで感謝しなければいけないと思っています。食べる物が無く、畑仕事も幼くて出来ない歳です。近所の子守りをさせてもらい、なんとか食べ物をもらう毎日でした。そんな日々に耐え切れず別の親戚のおばさんのところに逃げこみました。連れ戻しに来ましたが私が泣いておばさんにしがみ付くのでこの家に居ることになりました。まだ学校に上がる前の歳ですが、水汲みや食事作りの手伝いなど一生懸命しました。可愛がってくれましたが学校にいけるはずもありません。歳の近い子供たちが学校から帰って「お母さん、ただいま」という声を聞くと悲しくなって軒下に立って泣きました。みんなのお蔭で生きているのに学校に通う同い年の従兄妹が羨ましく一人で拗ねたりもしました。一人前に働けるようになると畑仕事を率先してやりました。
 17歳の時、町に出て住み込みの女中になりました。ご主人は定年した校長先生で、奥さんは宮古上布の藍や糸を売る仕事をしていました。子供さんは医者で孫もたくさんいました。食べ物も上等で良くしてもらいました。そんな家庭ですから自分が学校に行っていないとは一言も口にしませんでした。3年勤めた頃、知り合いが那覇に行くというのを聞いて、一度でいい那覇を見てみたいと船賃だけもってポンポン船に乗りました。那覇で友達に会い、女中をして3年後に生まれ島に戻ると、奥さんが「生きておったのかぁ。給料もとらんでどうしたかと心配した」と抱きついてくれました。嬉しかったですが、また那覇に戻りました。
 学校に行ったことも無い者が結婚など出来ないと思っていましたから、嫁にはいかんと決めていました。親しくさせてもらっていた人で私が姉のように思っていた人の紹介で今の主人と知り合いました。嫁は無理と思っても好きな人はできます。主人は優しそうで好きだったのです。23歳で結婚しました。長男が生まれ、子供が可愛いことを実感しました。自分の母を恨んだりしましたが母も同じ気持ちだったろうと分かり泣けました。主人が帰って来て泣いている私をみてびっくりし、事情がわかり「そんなことを考えるんじゃない」と叱られました。私の境遇を詳しく話したわけではありませんが、主人は私が学校にいったことがなくなにも分からないことを受けとめてくれています。4人の子供の恵まれ、全員が大学を卒業するまで2人で働きどうしでした。学問がないのでお金を取るには力仕事です。建設の現場でセメントを運んだり、それを練り合わせることや瓦屋で漆喰を捏ねて屋根に上ったりの仕事です。きつい仕事ばかりでしたが働くのを嫌だと思ったことはありません。
 学校に行っていないというのは恥ずかしいことです。なにかにつけ遠慮します。書ける名前も受付の前に立つと机がガタガタするほど震えます。年賀状も書いてもらってしか出せません。自分で書いてみたいです。恥ずかしいのには慣れていますから夜間中学では素の自分をだして頑張ります。数学が苦手なんです。買い物での計算はできるのに紙に書くとできません。でも、周りのクラスメイトがよく面倒をみてくれて、これをやらんねぇと声をかけてくれます。本当に少しずつですが分かっていくのが楽しいです。家にいたら疲れてニーブイ(居眠り)するのに学校では目がしっかりしてニーブイどころではありません。そんな私を見て子供たちは「かあちゃん、勉強が好きかもよ」と笑います。音楽で歌うのも、三線を弾くのも好きです。早く習字も挑戦してミミズのような字を直したいと思っています。だからついて行けなくても辞めさせないでくださいね。みんなと一緒に勉強したいんです。<A・Kさん談>