第35号
連載・聞き書き その31
主人が夜間中学校から卒業生誕生という新聞記事を読んで、こんな学校もあるよーと勧めてくれました。前々から家庭教師を頼もうかと相談していましたから、自分が入れる学校があるならと通おうを決めました。
中学を卒業はしています。通っていないけどカワイソウと思って証書だけはくれたんです。父は結婚していましたが東京の大学の学生でした。母も仕送りをしましたが父自身も車夫をしながら苦学したようです。車夫で雨風にうたれ肺病になり、そのままシナ事変に徴用され亡くなりました。学費のほとんどは借金でしたから残った家族母と兄、姉はその返済におわれました。母は百姓に向かない人で芋は指程度にしか育たず、豚も痩せてしまうのです。ですから私も朝早くから草刈をし、芋を一つ持って学校に行き、帰ると母から他所でご飯を食べなさいと言われ、近所の家の仕事を手伝いご飯を食べさせてもらうのです。夜もあき缶に石油を入れランプ代わりにしますが油がもったいないので早く寝るように言われていました。
戦争は小学1年の時です。豪に避難する練習ばかりでした。私の島は10,10空襲以外はあまりひどくはありませんでした。でも飛行機から薬がまかれ野菜がパーマをかけたようにチリチリになり枯れてしまいました。後でベトナム戦争の映像を見て、あれは枯葉剤だったのではと思います。芋のかずらさえなく、ソテツにあたって死んだ親戚もいます。戦争中はただただ食べ物が無い苦しさが一番でした。ただ本島の方を見ると米軍の艦隊が本島を取り囲むようにずらりと並び煌々と明かりを放っている光景は忘れられません。
米兵に初めて会ったのは友達と浜にいた時です。チンサヂー(丸いヒトデ)を噛むと歯が丈夫になると言われているので噛んでいると黒人兵が上陸してきました。身振りで吐き出せとうのでチンサヂーを出すとポケットからなにやら出してくれました。これが話しに聞いていた毒薬だと観念しました。押し頂いていると兵隊は自分でも同じものを食べ始めました。あれっと思い口に入れるとチュウインガムでした。こんな美味いものがあるんだと感動しました。
11歳からは護岸工事の日雇い労働です。頭の上に30キロのバラスを乗せ1キロ先まで運びます。重さで次第に首が曲がってしまいます。自分でもよくがんばったと思います。13の時那覇に出て住み込みの子守りをしました。働くのはイヤではありませんが、この家ではひどいことをされウスキの木をだいて泣きました。耐え切れず親戚の家に逃げました。この時中学校ぐらい出ないとカワイソウだとおじさんが島に連れ帰ってくれました。だから証書は持っています。
その後は軍のハウスメイドです。給料はすべて島の母に送りました。それでもお小遣いをもらい、洋服や下着までオーダーメイドで作ってくれて有り難かったです。小遣いをもらうと大好物だった餡餅とジランバ屋の長いかまぼこを腹いっぱい食べること、バナナを3斤も買って映画館にいき食べるのが大好きでした。「愛染かつら」を見て泣きながら食べるんです。その後は桜坂(かつての繁華街)のダンスホールに務めました。B円とドルを併用していた時代です。給料は安かったのですがチップは多くそれを貯めて家を建て母を呼び寄せました。
心の底にはずっと学問をしなかったことが残っていました。どんなことがあってもやりたいと思ってきました。学校に通い始めて、自分という人間はここにあったと感じます。勉強をしていると子供のころの気持ちに戻り新鮮な気分になります。校長先生が家に大きな辞書と虫眼鏡を用意したらいいと言っていましたから、今年の母の日に娘からプレゼントしてもらいました。辞書を引くのが楽しくなりました。娘も母さんイキイキしているよと言いますし、主人も三日坊主と思っていたのにと嬉しそうです。卒業までやるつもりです。
<U・Bさん談>
夜間中学は新聞で知りました。行きたいと思ってもなかなか次の一歩が出ないのです。娘に相談したらあっさりと行けばと言われてしまいました。入学の申し込みにも付き添って来てくれました。娘の一言に背中を押されたようなものです。
小学5年までは休みながらですがとりあえず学校に通っていましたが、子守り奉公に出ることになり家を離れました。父は戦争犠牲者といってもいいと思いますが、気分の良し悪しが激しくノイローゼ気味で、悪いときは誰とでもケンカをします。そんななか私が9歳のころ母が家を出て行ってしまいました。兄弟5人と残された父は祖父母の世話になることになりました。野菜や豆腐を作り、それを私が近所に売り歩くのです。みんなは学校に通っているのに私だけがという恥ずかしさもあり、同級生が通り過ぎた後こっそりと売り歩いていました。それでも生活が苦しいので児童園に預けようかと相談していたころ、子守りの話があったそうです。子守り先はよくしてくれたと思います。ただ子供が大きくなると別の家に代わり、落ち着いて生活をするというよりたらい回しの状態で、人の顔色を見て暮らす日々で淋しいと感じていました。給料は貰う傍から祖母の手に渡ります。私が唯一の現金収入源でした。
母とは一度だけ30年振りに再会したことがあります。責任をもってなぜ育ててくれなかったのか、なぜ置いていってしまったのか。謝ってほしいという気持ちがずっと心の中に渦巻いていました。でも母は再婚先の子供のことが一番でケンカ別れをし、そのままです。今なら生んでくれてありがとうと思いますが。祖父母には感謝という言葉では足りません。自分の子供を育てて、さらに孫まで育ててくれたのです。貧しいなか精一杯育ててくれて有り難いと思っています。
16歳で知人の紹介で印刷所に務めました。少しでも活字に触れられる環境が嬉しかったです。漢字は書けなくてもひらがなは読めるようになりました。活字を拾うところまではできませんが本の仕上げを担当し23年間務めました。時代の流れで印刷方法も変わりその会社は今はありません。24歳で結婚し2人の子供がいます。夫には私のような者を拾ってくれて感謝しています。学校に行っていないということは精神的に辛く、苦しいことです。小学校を卒業していないということは大っぴらには出来ませんから、どこかウソをついているような苦しさが付きまとい、いつも一歩下がって生きてきたのです。名前や住所は書けますが自分の思ったこと、自分の言葉を書けたら。ひらがな、漢字を使いきちんとした文章が書けるようになりたいのです。
夜間中学は楽しい。境遇が似ていますから隠すことありませんし、心が通じ合います。学校に憧れていましたが、ここで同級生が出来たのです。みんなと話したいし、聞きたいです。授業で難しいのは英語です。初めてのABCに戸惑っています。家でも少し変化がありました。これまでは夫に迷惑をかけるからとあまり自分のことを話しませんでした。今はなにか書いたら夫にどうかしらと見せるとアドバイスをしてくれますし、漢字も教えてくれます。夕飯も片付けをしてくれるようになっています。<R・Iさん談>
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