連載・聞き書き その30
沖縄に夜間中学があることは新聞で知りました。3年前に開校した記事を見ました。でも、学校は怖いという気もあったし、夜間中学に行きたいとダレにも言えず新聞の切り抜きをとってありました。この春に夜間中学校から卒業生が出る、高校に進学するという記事を見て羨ましくなりました。娘に相談すると「なんで早く言わないの。いいねぇ。」と珊瑚舎の電話番号を聞いてくれました。
小学5年生の1学期に家族疎開をしました。父が病気だったので兄嫁と甥、弟、私の4人です。学童疎開もあったのですが父が子供だけでは心細くやれないと言うのです。20軒の家族がまとまって鹿児島まで船で行き、5軒づつ分けられ私たちは熊本市の郊外のお寺にあづけられました。大人は畑仕事を手伝い、子供は学校に行きましたが勉強はせず芋や野菜を作っていました。空襲が激しくなると学校はなくなり沖縄からの仕送りが途絶え、近所の子守りを引き受けて食べ物をもらったり、闇商売で熊本市内に芋やにぎりめしを売りました。子供は捕まってもお巡りさんが許してくれるのです。それも汽車がなくなり出来なくなりましたが。住み込みで8人兄弟の家に下働きとして入りました。朝早くから歯釜でご飯を炊き、水汲みをするのは大変でしたがご飯が食べられるだけで有り難いと思っていました。沖縄は全滅したという知らせも入ってきます。1度だけ両親の夢を見ました。畑仕事をしていて話しかけてもうつむいたままでものも言いません。これはダメだと思いましたが沖縄からいった小母さんがそれは反対だよ、生きているから夢に出るんだよと言ってくれました。
沖縄に戻りましたが、本当に全滅でした。疎開しなかった両親、次兄さん、妹は既に死んでいました。親戚が屋敷跡にほったて小屋を作ってあり、そこに4人で住みました。畑といっても艦砲射撃でめちゃくちゃにされていて食べる草の芽もありません。ソテツの実からデンプンを絞ったカスをさらに臼で挽いて食べたり、アフリカマイマイをゆがいて食べました。これは一度ゆがいて竈の灰で粘りをとり再度ゆでるのです。食べられそうなものはなんでも口にします。3歳下の弟を学校に行かすため口減らしで叔母さんの所に移りました。しばらくして戦死した上の兄さんの遺骨を引き取るように連絡がありましたが、兄さんは生きてひょっこり帰ってきました。あの遺骨はだれのものだったんでしょうか。
20歳で同じ集落の人を結婚しました。この頃はまだ集落ごとに夜若者が集まり歌ったり、おしゃべりしたりする「もーあしび」という風習がありました。若かったので軍のハウスメイドをしました。将校の家族は2年間ぐらいで変わりますがいろんな家族とつき合いました。一番親しかった家族とは離れても付き合いがあり、日曜日に私に日給を払いドライブに連れて行ってくれたり、帰国してから洋服をダンボールで送ってくれたりするのです。また、私たち夫婦にアメリカで暮らさないか、子供を留学させないかとも言われました。
人前で字を書けません。覚えている字でも手が震えて書けないのです。子供の参観日は楽しみでした。自分が習っているような気持ちになるのです。学校のことは思っているんですが、生活に追われていると後回しになります。食べることが先にありますから。でも、なんとかしたいと30年前ぐらいに英語塾に通ったのですが、一字書き終わるころには消されていてついていけませんでした。
夜間中学は塾と考え方が違います。ていねいになんでそうなるのか分かるまで教えてくれます。問題を解けても意味が分からないとダメなんですよね。分かること、一字一字がきちんと書けて読めることは本当に楽しいことです。<W・Sさん談>
一応中学を卒業したことになっていますが、ほとんど勉強はしていません。9人兄弟ですが、2人は戦死し、幼くて亡くなった兄弟もいます。戦争は小学3年生の時です。家はヤンバル(沖縄の北部)にありましたから戦争が激しくなってからは近くの山に逃げていました。同じ部落の大人たちは那覇方面から逃げてくる人達のために山の中に避難用の小屋をたくさん作り、自分たち用の小屋はさらにその奥、ほとんど人が通らない東村寄りの山中でした。食べ物は豊富ではありませんでしたが、戦争が近いと知った時から米やタードシ芋を蓄えていました。水もすぐ近くにきれいな小川がありました。ですから沖縄の他の地域の人たちの悲惨な状況からすれば恵まれているはずです。
戦争が終わり、学校が始まりましたが勉強どころか校舎がないのでそのためにバーキー(平たいオオザル)を頭に乗せて砂や石を運ぶ作業の連続でした。それが終わるころには一人前の仕事ができる歳(5年生)になっていたので、家の仕事、ウマやヤギのための草刈り、水汲み、畑仕事で精一杯な毎日でした。ですから卒業したと言っても“山学校”を卒業したようなものです。芭蕉布で有名な地区で実家も祖母や母は糸紡ぎをし、藍染めにして父が那覇まで歩いて商いをしていました。芭蕉布もたくさんあったのですが残っているのは1枚だけです。両親の思い出が残る宝物です。おじさんが舞踊の先生をしており小さい時から踊りだけは習っていました。17,8歳になるころからは村芝居に出ることが楽しみでした。ずっと続けていた舞踊は最高賞までいきました。夫も好きでよく一緒に踊ったものです。夫が亡くなり、そのショックからうつむくようになり、娘が精神科の手配しようとしたところ脳腫瘍とわかりすぐ手術をしました。今は信じられないほど元気です。その元気を自分のためにと思い入学しました。読み書きができないヒケメは今も苦しいんです。授業についていくのは大変で、もう少し中味が分かったらおもしろいと言えるんですが。学校に通うのは楽しいですよ。<K・Dさん談>
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