第32号
連載・聞き書き その28
去年の新聞に夜間中学校のことがでていました。3年前からやっていたんだと知ってすぐ電話をしました。
小学校3年生に入ったころから戦争が激しくなりました。学校に行っても日本兵のための壕を作る仕事の手伝いをするばかりです。もちろん小さいのでスコップなどで掘(ほ)る仕事はできません。壕を掘る時に出る泥をバケツで運び出す役目です。先生と一緒に男女の区別なく働きます。食べる物も少なく力仕事はきつい毎日でした。場所は沖縄戦の自決で有名になった南部の喜屋武(きやん)岬の山です。かなり長い壕をいくつも作ったはずです。私自身は熊本に疎開しました。いい家庭に恵まれ、沖縄にもどっても食べるものも無いというので、終戦後も少しの間は熊本に留まりました。後で同郷の妻が話すところによると「アメリカ軍が上陸してからは、壕の中で過ごしました。幸い両親と兄弟4名は一緒でした。爆風で学校は焼けて跡形もありませんし、学校のことを考える余裕などありません。次第に追い詰められた友軍(日本軍)は少しでも良い豪を自分たちのものにしようと『出て行かないと撃つぞ』と脅しをかけます。その度に次の豪を探して移るのです。アメリカ軍もその辺のことが分かるようになって、良い豪には日本兵がいると集中攻撃をしかけるようになっていきました。水はあったのですが食料が無く、夜に畑まで這って行って芋を探しますが、艦砲射撃が激しく今だにあの音は忘れられません。畑には死体がごろごろあってその上を歩くしかありません。昼間に豪の隙間から海を見るとアメリカの戦艦がずらりと並んでいるのが見えました。豪の中でも自分が座っている隣の子供連れの女の人が死んで子供だけが助かったりすることがありました。艦船からは「日本は負けている。降伏しなさい。」と連日アナウンスがあります。もちろん、日本語です。最初はアメリカに負けているもんかと思っていましたが、子供心にも状況が分かってきました。友軍は壕から出て行くんじゃないと言い、その通りにした人々はすべて戦死しました。中には好い友軍もいて、民間人なんだから出て行ったほうがいいぞと言う軍人もいました。自分たちは白い布を掲げ、おじい、おばあを先頭に立て壕を出ました。すぐ捕虜になりトラックで豊見城(とみぐすく)に集められ、北の野嶽に送られました。すぐDDTを全身に浴びせられました。食料は見たこともないアメリカの缶詰や乾パンだった」そうです。
しばらくして、私は故郷の糸満に帰ってきました。でも、とても学校どころではありませんでした。両親はサトウキビを作っていましたが、それだけでは暮らせず軍に働きにでました。モータープール(駐車場)でタイヤ交換などを覚えました。車のことを本当に良く教えてもらいました。運転免許も軍で実施していたのでここで取りました。読み書きが出きない自分が免許をとれたのは試験がアチーブメントだったからです。今のように筆記だったらとれなかったはずです。実はこの時、何度試験を受けても自分ともう一人は落ちるのです。ある日先生が本土の大学にいくことになり、2人が呼ばれました。そして運転免許書をもらいました。本当は以前に受かっていたそうですが、若い者はもっと勉強したほうがいいという考えから預かっていたそうです。そのように考えてもらってありがたかったです。10年ほど軍に務てからタクシー運転手になり、自立してトラック運送業を始めました。日本復帰までは順調でしたが、復帰後は本土の業者が入ってきて儲からなくなり辞めました。今は半農半漁で暮らしています。主にニンジンを作っています。親はサトウキビをやっていましたが、あれは本当にキツイ仕事ですから若くなければ無理ですよ。つい最近まで船をもっていました。パヤオ(人口魚礁)にいくのがなによりの楽しみでした。うまくいくとマグロ、カジキ、マンビカー(シーラ)が獲れます。たいした漁ができなくても心が躍るものです。
学校にいっていない、勉強していないというのは何歳になっても克服できないなにかがあります。みじめと言ったらいいのか何事に対しても気後れがしますし、人前に出て発言しても遠慮があります。学がないのは苦しいことなのです。塾はいやです。やはり学校で勉強がしたいのです。入学してまだ1週間ですから、なんの教科が好きとは言えませんが英語は好きです。でも、読み書きをなんとかしたいと必死ですよ。この土、日は今日本語でやっている「漢字で書きたい5つの言葉」を練習していました。今日の午前中もです。読み書きができるようになったら、これまで孫に代筆してもらっていた年賀状を自分の手で書くことができると思うと励みになります。<S・Wさん談>
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