>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第31号

 連載・聞き書き     その27

 2004年8月の新聞にのった夜間中学の切り抜きを宝物として持っていたんです。ほらこれです。通いたいという気持ちはあったのですがついていけるか心配でしたし、字が書けないという劣等感がありました。今年(2007年)の3月に夜間中学が何回も新聞にのるようになり覚悟を決めて電話をしました。主人や弟は何でいまさら学校に行くねーと言いますが、自分で字を、文を書けるようになりたいのです。似せて書くことはできても自分なりに文章を書けるようになりたいです。他人はどうあれ私には学問が必要だと思ってきました。
 義兄も含めて10人兄弟の次女です。小学4年生の時に10,10空襲(1944年)がありました。ヤンバル(沖縄の北部)の山に一家で逃げました。艦砲射撃のなか芽をだした芋を探しそのカズラを食べたり、夜は海まで潮汲みにいきます。ソテツも夜採りに行き砕いて発酵させてたべるんです。私は常に弟や妹を背負っていました。捕虜になって大宜味村に収容されました。しばらくして 里に帰り学校にも通えるようになったと思った6年の春、父が肺炎で急死しました。双子の兄弟が産まれて5日目のことです。本当の苦労はここから始まりました。私の学校もここで終わりです。父が生きていた時はなんとか暮らせたのですが、その後は親戚もない土地で本当にヒンスー(貧乏)状態でした。山から薪をとって売るのが唯一の現金収入です。私は幼い兄弟の面倒をみ、家事全般をしました。父がいたらと何度も思いました。上の川での水汲みは辛い仕事ですが、これを無事にすましたらお父さんが帰ってくるのではと考えたりしました。ある時母が私と妹2人を連れてアダンの茂みのなかに入り、死にたいと呟きました。泣きながら必死で私は生きていたいよー、生きていたいと叫びました。
 成人して那覇で働くようになり、いいなずけ同然の同じシマ(集落)の人と結婚しました。仕事はお蔭様で47年間同じ職場です。復帰の時はヤマトの会社と合併し、環境も大きく変わりました。今まで使っていた機械とは比べものにならない高性能の機械が導入され戸惑いましたし、研修制度がありました。子供が幼稚園の時、福岡に一ヶ月研修に行きました。この時が船や飛行機も含めて初めての旅でした。字が書けないこともあり苦労しました。私が入れるような中学校があればなぁと思っていました。自分なりに勉強しようと辞書を買い、今も使っています。でも一人で目標もなく勉強するのは大変です。ですから今夜間中学に通ってみんなで勉強するのがとっても楽しいんです。夕べも学校から帰って夜中の2時まで勉強しました。日本語でやっている「漢字で書きたい5つのことば」を自分なりにもう一度やりなおしたのです。漢字も少しずつ書けるようになっています。自分で言うのもなんですがたった1ヶ月ですが字がしっかりしてきました。学校を続ける勇気が出ます。校長先生が指にタコができるくらいやれば文章も書けるようになると言いますから、それを励みにがんばるつもりです。先日は中学1年生の孫に、こんな勉強をしているよと見せたら、こんな漢字もあるよと教えてくれるんです。嬉しかったですね。まだ、ついていけるか心配なので月謝は毎月払いにしていますが、自信がついたら年払いにするつもりです。卒業までの3年間は家族が健康で無事であってほしいと願っています。<N・Eさん談>