第30号
連載・聞き書き その26
娘が道をつくってくれました。5年ぐらい前からもう一回学校に行きたいと考え始めていました。塾でもいいかなぁと思っていましたが、娘に孫と同じ教室で勉強するのは無理よと言われて話がとぎれていたのですが、あちこちに電話をしてくれてお母さんの通える学校があったよと見つけてくれたのです。
7人兄弟の末っ子です。戦争は5歳ぐらいの時です。ほとんど記憶はありません。ただ、両親と兄2人が亡くなりました。一人の兄は対馬丸に乗れずその後の船で九州に疎開し、しばらく沖縄に帰れませんでした。19歳と15歳の姉が私を育ててくれたのです。姉の話によると戦争が激しくなったとき、両親はすべてのお金を風呂敷につつみ子供だった私の腹にくくりつけたそうです。でも逃げている途中で無くなり大騒ぎだったとか。道具類は穴を掘って埋めたそうですからお金も一緒に埋めていたらと姉が嘆いていました。私の覚えているのはその時赤い着物を着て帯までしめていたことだけです。壕の記憶は銃の音がしておびえたこと、兵隊が姉にカンパンと金平糖をたくさん持ってきてくれたことです。戦後は土地も家もあったのですが、生かしきれないのです。上の姉の嫁ぎ先についていきましたが淋しくて15歳の姉のもとに帰りました。その後ほとんどこの姉に育ててもらったようなものです。学校はカヤブチヤー(藁葺き)で台風があるとすぐ倒れ、地面をつかって足し算や引き算をする程度で、行かなくなりました。結婚する気はありませんでしたが、友人にいい人がいるよと紹介され、相手の二親が生きており安心できると思いました。夫にも暖かさを感じました。仕事にも恵まれ大きなお菓子屋やそば工場に勤めたり、当時は珍しいゴルフ場でも働きました。でも60歳を過ぎるあたりから、もう一度学校に行きたいと強く思うようになったのです。内地には夜間中学校があると聞いて、沖縄にもいつか来るかなぁと期待していました。
入学してすごく楽しいです。不思議なぐらい楽しいです。「私」と「和」がちがう漢字だと昨日分かりました。ちょっとのことでしょうが分かるということがとても嬉しいのです。すこしは書けるので役所も銀行も困ったことはありませんが、一つ一つ覚えて綺麗な字を書けるようになることが嬉しくてなりません。アルハベットで書いた名前も娘が合っているよと言ってくれました。友達を誘ったら「いまさらいってなにをするの」と言われましたが、どうするため、なんのためではなく、分かりたい、みんなと一緒にもっと知りたいというだけなんです。日本語も英語も好きですが、音楽が一番好きです。みんなと歌を歌うっていいですよね。(A.Z.さん談)
サークル仲間の友達が1年先輩にいます。朝、与儀公園で体操をしたりするグループで一緒だったんです。後一年待って入ろうと思っていましたが、その友達が今だったらあんたも入れるよと言うので迷いながら入学しました。母が亡くなって法事があり忙しかったからです。
7人兄弟の3女です。小学1年の時に戦争が激しくなりました。学校が遠く通学路が危ないということで、入学式だけをやって後は近所のお姉さんたちが教えてくれました。教科書の1ページは「あかい、あかい、あさい、あさい、ハトこい、こい」だったことを覚えています。ヤンバル(沖縄の北部)の山におばぁちゃんや近所の人たちと疎開しました。山では勉強道具もないし、しょっちゅう豪に入ったりで勉強どころではありません。子供たちでおにごっこをして遊ぶことぐらいでした。戦争が終わり、地元の糸満の家に帰って学校に通うことができるようになった時は3年生なっていました。教科書もノートも焼けてありません。驚いたのは本土に疎開していた子供たちは教科書、えんぴつ、ランドセルまで持っていることでした。勉強もしていたらしく私たちに比べるとずいぶん進んでいました。4年生の時に交通事故にあいました。アメリカ兵の車です。まだ病院もまともになく、外人用のコルセットをはめただけでした。足と頭を打ったのです。再び学校に行った時はさらに遅れていて、次第に勉強ぎらいになりました。中学校は卒業したものほとんど身についていません。家が農家で下に生まれた弟の子守や農作業の手伝いも忙しかったのです。父は馬、牛、豚を飼っていました。器用な人で酒を作るし畳も作りました。私もイグサを手で割って畳表を作れます。サトウキビ作りが中心で刈り取りの季節にはトラック30台分ぐらいを出荷していました。
結婚して那覇に来ました。夫は自営で軍のクーラーの取り付けやビル管理の仕事をしていました。私は雑貨屋を営んでいました。30代で家を建て、これからという時に夫が病気で亡くなりました。長男が小学6年生でした。2人の子供を抱えて途方にくれました。店をたたみ、仕事に出ました。良い職場があるから勤めないかと勧められることも度々ありましたが、読み書きができないのでいつも諦めるしかありません。長い間ホテルの接待係りをしました。私は実家と嫁ぎ先の両方の法事を取り仕切ってきましたし、門中(むんちゅう)(一族)の行事をやってきました。ですから、その方面ではホテルでも頼りにされていました。子供の教育はしっかりやったと思います。学校の奉仕活動は全部参加しました。先生から子供が立派に育っているので、そんなに学校に来なくてもいいですよと言われたぐらいです。
65歳になって、やっと自分の時間ができました。子供たちには夜間中学に行っていることを内緒にしていたので、夜9時過ぎに電話をしても出ないので、遊んでいるのか、倒れたのではと心配したようです。姉と妹に伝えると二人ともとっても喜んでくれ、休んでも続けるよう励ましてくれました。去年は法事が続いたり嫁の体調が悪く、かなり休みました。さぼっているわけではないのですが、みんなに遅れると心配になります。でも、校長先生が学校で勉強すれば十分、家に帰ってまで無理しないように言ってくれるので心強いです。2年生になったらいろいろ勉強が楽しくなり、休むと損をした気分になります。先生方も冗談を交えて頭に入るように工夫して教えてくれます。一時は辞めようかと思ったこともありましたが、辞めなくて良かったです。体がついていけるようだったら高校にも進みたいです。(T.K.さん談)
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