第29号
連載・聞き書き その25
ここはね、幼なじみが教えてくれました。車の免許を取りたいのですが、漢字がまったく書けないのでどうしようと相談したことがあったのです。それを覚えていて新聞やラジオで紹介された珊瑚舎の夜間中学の電話番号を連絡してくれました。
学校は小学2〜3年ぐらいから今で言う不登校でした。エンピツで突かれたり、カバンを隠されたりするのです。自分はおとなしく下を向いているばかりでいじめは毎日続き、学校がいやになったのです。先生が家に呼びにきて学校に戻るのですが、いじめが無くなるわけではないのですぐ休んでしまうんです。中学も同じような状態でした。授業の内容も分からず行っても座っているだけでした。親も最初は怒りましたが、途中からは諦めていました。
当時は自分たちは“金のたまご”と呼ばれていて3月の初めから東京に働きにいきました。中学の卒業式もすんでいませんでしたが先生も許可してくれて、卒業証書は後で親元に届けられたそうです。職場は友人が紹介してくれたプレス工でした。東京に行ったのは俳優や歌手を見てみたかったんです。住み込みで働くのですが、仕事上鉄板を切ったり加工したりするので常に危険が伴いました。自分はそれほど嫌ではなかったのですが、先輩たちがしんどいと言って次々と逃げてしまったので、一人になり困って辞めました。
友達からは海上自衛隊に入ろうと誘われたのですが、自分には合わないと思ったし、18歳になっていなかったので断りました。それから横浜の中華街に行き、ある店でコック見習いの募集があったので雇ってもらいました。最初は野菜を洗うことから始めて、次第に、包丁の使い方を習い何回か手を切ったりもしましたが楽しくなっていきました。2〜3年たって揚げ物を担当するようにまでなったのです。広東料理の店で焼き物が売りでした。大きな釜に鶏や豚、腸詰をぶら下げてじっくり焼き上げます。自分の得意料理は八宝菜やチンジャオロースです。5年ほど務めて大阪の店に移りました。これも友達に誘われたからです。いい給料だと聞いていたのですが、実際はそうではありませんでしたが、関東より大阪のほうが沖縄に近い雰囲気があり20年近くも務めました。親にはボーナスを仕送りしていました。
父が病気になり、母に戻ってくるよう言われ沖縄に帰ってきました。父は3ヶ月ほどで亡くなりました。自分自身も病気をし、手術をしました。姉や妹たちもいるのでそのまま沖縄に留まることにして、今もある大学の食堂でコックをしています。
学校に通うのは不安でしたよ。ただ、クラスのみんなが朗らかで話がしやすいのでほっとしています。まだまだですが漢字も少しづつ書けるようになっています。苦手は英語でこれは頑張らないといけません。一番嬉しかったのは三線が授業にあることです。ここに来て初めて三線を手にしました。なんとか自分で弾けるようになりたいです。夜間中学を卒業するまでは今の職場で頑張るつもりです。
(Y.Kさん談 2007.4.19.)
同郷の友達からここの学校のことを聞きました。きちんとした日本語を勉強したいと思っていました。自宅でも出来ますがみんなと一緒に勉強をしたら早く覚えられるし楽しいだろうと思い通うことにしました。
生まれは中国です。北京から車で1時間ぐらいの農村です。兄弟は7人で5番目の次女として生まれました。一番下の弟はすぐ亡くなりました。子供の頃は貧乏でしたし、中国では普通男は学校に行くけど女は行きません。女は結婚すると外の人という考えがあるためか、お父さんお母さんは男の子が好き、女の子嫌いです。だから兄と弟は学校に行きましたが姉と私は学校に行きません。周りの女友達も学校にいく人はいませんでした。ある時父に兄さんは学校に行っているのに、なんで私は行けないの。行きたいよと訴えたことがあります。父はお金がない。だからお前は学校に行けない。分かったかと強く言いました。父が怖くてなにも言えませんでした。4歳ぐらいからは弟の面倒をみて、ごはん、そうじ、せんたくを私がやります。10歳からは父母と一緒に農場に働きにでました。米作り、芋、ピーナッツ、コーン、ゴマなどを作るのです。でも、給料はありません。20歳まで働きました。
21歳で結婚しました。中国では交換結婚というのがあります。日本ではないのではありませんか。兄が結婚した相手の兄弟と私が結婚するのです。この場合は結婚する時にお金を相手に払う必要がないのです。私は自分の結婚する相手を2度見てOKしました。夫はおとなしい人でしたが、兄の妻は夫の妹ですが気が強く、母のことをバカバカと言って叩くので毎日ケンカでした。23歳の時に離婚しました。普通は離婚する場合子供を夫婦で分け合うのですが、私は2人とも自分の元に引き取りました。
その後働くために北京にでました。子供は母がみてくれました。最初は友達の店で働き、その後自分の店を持ちました。餃子屋です。私が社長で会計と買出しを担当し、専門のコックと厨房、ホールなど10人位の従業員がいました。お店は朝6時から夜12時まで営業します。疲れるけど楽しいね。銀行の融資も受けました。夫になった人は北京の日本語学校で日本語を教えていた人です。私の店に毎日餃子を食べにきて知り合いになりました。優しい人だったので再婚する気になったのです。
夫の郷里の沖縄に来たのは2002年7月20日です。今もはっきりと覚えています。沖縄は寒くないし、空が大きく雲は白く、道はきれいで良いところです。好きです。私がいた中国は道は汚いし月や星が見えません。連れてきた子供は2人とも高校生になりました。沖縄で生まれた女の子は1歳半です。
夜間中学の授業の中では一番数学が好きです。次は日本語です。ひらがな、カタカナはOKですが、漢字は難しい。中国で使っていたので漢字を書くのは大丈夫ですが、読み方が全然違うので困ります。ことばも一つ一つは分かるし、短い文章なら書けますが、て・に・を・はをどこに入れるかが分からない。でも、みんなと一緒に勉強するのは本当に楽しいですよ。
(N.E.さん談 2007、4,24)
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