第28号
連載・聞き書き その24
友達のパーマ屋さんがテレビで夜間中学校の番組を見て、電話番号を控えてくれていました。長いつきあいなので私が学校に行っていないことを知っているのです。電話で内容を聞いてご覧よと言われたのですが、無理さぁと思いながらも歩いて通えるので当たってみようと思いました。
母は私が生まれてすぐ亡くなりましたし、父は戦死したそうです。3人兄弟でしたが、もの心がつくまでには私一人だけになっていました。伯父、叔母に可愛がられましたが、そこにも8人の子供がいます。そこで、義理の姉が年子で5人も産んだので、4歳ぐらいから子守として手伝いに出ました。手足が動き、力がついてきたら農作業もします。だいたい6歳ぐらいからです。一番辛いのは大根や芋を頭に載せて運ぶのですが、縄で編んだ入れ物の先が頭に食い込んで痛いのです。放り出そうにも放り出せず泣き泣き運びました。でも、6歳でも姉さんに頼りにされていますから、がんばりましたよ。私が3〜4歳のころ役所から学校に入学する通知がきて周りの人達は慌てたようです。あの頃は生まれたらすぐ戸籍に入れるという時代ではなかったので、お祖父さんが金に困らないからといって巳年の生まれにして届けたからなそうです。でも、一度も学校に行くことはなかったのですが。義姉の子供たちの弁当を届けに学校まで行く時があります。窓の外から「ほら弁当だよ」と言って投げ込んでいました。今思うとなぜそんな乱暴なことをしたのか、たぶん自分が学校に通えない悔しさからでしょうか。
一番頼りにしていた叔母さんが八重山に移民することになり、付いて行きたかったのですが5人も子供がいて無理でした。そのころからから生まれ島が嫌で那覇の義兄のところに船で家出をしました。まだ10歳にもなっていなかったのにです。2回は帰されましたが3回目は諦めて置いてくれました。そのころの平和通りはたいそうな繁華街で住み込みの「子守」や「女中」募集の札が下がっていました。その一軒で子守をすることにしました。奥さんはPXで働き、旦那さんは大きなカバン店を経営していました。子供と遊ぶだけで洗濯や炊事はしなくていいのです。礼儀作法も知らないし、ことばも宮古方言でしたが、洋服や靴を買ってくれ、まるでお嬢さんのようです。8ドルの給料をもらった時は、どうすればいいのか分からずバチが当たるから要りませんと答ました。奥さんはあんたに給料を払わないと私が罰金を取られるからもらいないさいと言われました。このころが一番楽しく良い時代でした。
義兄さんが軍の仕事でアメリカに行くことになり、この家の子守に呼び戻されました。その後17歳で24時間営業の食堂でウエイトレスをします。昼夜働きましたが、楽しかったです。子供ができて結婚しました。ただ夫が大変なギャンブル好きで家にお金を入れないばかりか大きな借金を抱えて苦労しました。荒れると私に殴る蹴るの暴力を振るうので子供をつれて宮古島に逃げました。子供をおいて再婚するようにずいぶん勧められましたが、それだけは子供のために断り続けました。
エンピツをもったことのない私ですが、自慢は車の免許をとったことです。受かるはずもないと思っていましたが、勉強をしたという思い出が残るだけでもいいと自動車学校に行きました。教本を見ても本当になにひとつ分かりません。何回受けてもダメでした。でも、振り仮名つきの教本があるとわかり手に入れてからは家に閉じこもって3ヶ月間かってまるまる暗記しました。10キロも痩せたんです。何度も息子にテストをしてもらい100点で合格です。初めは誰も信じませんでした。
勉強はずっとやりたい、学校に行ってみたいと思っていました。もっと早く夜間中学校を知っていたらと思います。体はくたばってきていますが、10年かけても卒業します。息子が過労死で亡くなりました。だから学校に行く時は写真の息子に母さんを見守っていてね、早く帰るから留守番をよろしくと語りかけて出てきます。
(Q.K.さん談 07,4,17)
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