>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第25号

 連載・聞き書き     その21

 台所仕事をしながらテレビをつけていたら“学校”という言葉が耳に入り、振り向いたら電話番号が出ていました。あわてて濡れたた手のまま紙切れに写しました。いつも頭に学校のことがあったんです。電話をしたら夜間中学校だというのです。小学校も出でいなし名前もよく書けないんですと言ったら「大丈夫ですよ。願書もこちらで書きますから」と言われ嬉しくて翌日申し込みをしました。
 5人兄弟の長女です。父は病気で母が雑貨屋をしながら生活をたてていました。母は外にいって物を売ったり仕入れがあるので、小さいながらも自然と私が家のことをするようになりました。両親は子供を学校に行かそうと思っていたはずです。ただ、私が学校に馴染めなかったことと、現実的には手伝いをしてくれたらありがたいという雰囲気があり、小学1年でやめました。馴染めなかったのは、教員をしている親戚が多く当然私も勉強ができるはずと周りから見られているのが嫌でした。祖母もあんたのお母さんはよく出来たのにと言いますし、担任もそうでした。一番苦痛だったというか無理と思ったのは普段の生活はウチナー口(沖縄方言)なのに学校だけは共通語を使わなければならないということでした。このことは本当に違和感がありました。12歳の時に父が亡くなりました。中学1年の年に子守奉公にでました。家よりおいしいものが食べられ、毎日白いごはんでした。学校に行っていないものの同級生という意識があったので、ある日学校に行ってみました。恥ずかしいので窓から教室に入ったのです。今思うとそのことのほうが恥ずかしいのですが。友達と机を並べ教科書を見せてもらい1日過ごしました。でもついていけないとはっきり分かり、それっきりでした。
 22歳で結婚しました。学校に行っていない者は結婚なんてできないと強く思っていました。ですから話が持ち上がった時も振り向きもしませんでしたが、家族同士がつきあうようになり困って那覇に逃げようと船に乗ったら、夫になる人が艀に警官乗せて追いかけて来ました。連れ戻されたもの死んでやろうと思い崖に立っていたら、彼がそばにいました。逃げられないと観念しました。とても良い人でした。
 自分で努力して獲得したものは運転免許です。夫はエンジニアで外国に2ヶ月ほど行くことがあります。家に車があっても夫が留守だと使えません。子供にせがまれて車の教習場をのぞくとたまたま教科書が落ちていました。ひろって帰りながめてみると、1年ぐらい勉強したら受かるかもしれないと申し込みをしました。学科は教官の言うことを一言も逃がさないように聞き、問題集を暗記するほど読んで、翌朝は先生に質問をして忘れないようにしました。先生から人生のなかで高校生が一番カンが冴えるがあなたはそれに次ぐと言われ励みになりました。学科の試験はなんとスラスラできてびっくりしました。こんなんでいいのかと不安になりながら試験会場を出ると合格ですと知らされました。あっけなく、なんで私がと変な気分でした。アパートに帰ると大家さんがおめでとうとケーキをプレゼントしてくれ、やっと実感がわき嬉しくなりました。実地も1回で受かりました。学校を出ている人はなんでもないことですが私には何倍も努力が必要です。自分が学校を出ていない分、子供の教育には気をつかいました。でも、よくしたもので子供たちは自分から進んで勉強しますので、私に頼ることはありませんでした。日常生活では病院で問診表が記入できなかったり、役所では手がブルブル震えて書けないこともありました。
学校でテストを受けたり、友達と一緒に行動したりという夢をしょっちゅう見ました。あれ、このごろ見ないなぁと思って考えると孫が生まれてからでした。学校に行かなかったことに非常に拘って生きてきました。でも、今夜間中学に通うようになったら卒業証書は必要ないと思うようになりました。そんなことより、勉強そのものがしたいのです。勉強は難しい時があり、ついていけないのではないかという不安とやりとげてみせるという気持ちが交差します。昨年亡くなった夫は私が鉛筆をもつようになったことを喜んでいると思います。 (T・Eさん談)