>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第23号

 連載・聞き書き     その19

 夕方テレビをつけてチャンネルを変えたらちょうど“夜間中学校”と言うのが聞こえました。翌日NHKに電話をしてどの番組かを探してもらい、珊瑚舎に電話をしました。
 6人兄弟の長女です。父は仕事を辞め家で待機しているような状態で、母は栄養不足で寝たり起きたりでした。小学3年生のころから妹や弟の世話、家の手伝いをするようになりました。弟のオシメを洗濯するのが朝の日課です。川原が家からだいぶ離れているので朝早く起きて、一人では不安なので妹をおこして連れていきます。妹は洗濯するそばで眠っているだけでしたが。オシメを干してあれこれ用事を済ませて学校にいくころには1時間目はとうに終わっていました。お昼は弁当を持っていける生徒は限られており教室で食べます。私のようにハンカチに芋を1つ包んでいく生徒は学校近くの森に行き、塩や味噌をつけて食べます。結構何人もいました。なんにもない人もいましたからね。粉ミルクは給食で出ました。台風の時は紙コップに粉ミルクを入れてくれました。みんな家に持って帰るのを待ちきれず道々で粉ミルクを食べるので口の周りが白くなり笑いあったものです。でも、その給食費や家庭科の運針で使う布代が払えないのです。父が事業でだまされたショックで家にお金を入れられなくなり、中学に入学の年に住み込みの子守にでました。お金があればお米も素麺も買えますから。大家族の教員のお宅でした。子守りをしながら読めもしないのに本をのぞいたりしました。井戸が近くにないのでかなり歩いて洗濯に行きます。行きは下り坂ですし洗濯物も軽いのですが、帰りは頭に載せたタライがものすごく重く辛かったです。近くに映画館がありました。当時は夕方からの放映でしたから、夕方になると音楽が流れます。島倉千代子の「この世の花」や春日八郎の「別れの一本杉」などがかかります。そうした歌を聴きながら、どうしたらこの境遇から抜け出せるのかあれこれ考えます。親には頼れない。相談相手もない。そんなある日、同じような境遇の友達がレストランに勤めていたので遊びに行きました。バスに乗って帰ったらその後を友達が追いかけてきて、レストランのおかみさんがもう一人雇ってもいいと言っていると知らせてくれました。即座に決めました。抜け出したのです。荷物は風呂敷つづみ一つです。それからは自分の人生です。給料はかなりよく、食べるもの、着るものは贅沢ができました。お小遣いがあると本屋に行き、手に持って触ってみて買うのです。読まなくてもいいのです。お金を貯めて学校にいこうという夢がありました。美容学校の願書を取り寄せたら義務教育修了とあり諦めました。21歳で結婚し、子育てをしてきました。学校に行っていないので、自分なりに努力して生け花やインテリアも勉強しました。
 年金をとる歳になり、自分を変えたい、好きなことやろうと思い夜間中学を選びました。初め、夜間中学は県か市がやっていると思っていました。NPO法人がやっており、先生がみんなボランティアだと知り驚きました。入学式は緊張したと同時に自分と同じ境遇の人がこんなにいたのかと胸がつまりました。入学式の会場に入るとき拍手で迎えられ、嬉しいようなどうしてよいか心の準備がなくとまどいましたが、自分の人生にもこんなことがあるのかと感動しました。(L・Aさん談)

 新聞で知りました。東京で仕事をしていて、たまたま帰郷した2年ぐらい前のことです。その記事を切り抜いてありました。70歳まで働いて沖縄に帰ろうと計画していましたので、昨年(2005年)久茂地のデパート前で夜間中学の署名活動に出会い入学をお願いしました。
 小学4年の終業式の前日に空襲にあい家を焼かれ、捕虜になるまで逃げ延びました。明日着ていくセーラー服を用意していたのでその日が3月25日だと今も覚えています。学校にきちんと通ったのはこれが最後です。父が防衛隊にとられていたので、義母とおじぃ、おばぁと一緒に逃げました。大里や東風平の壕を転々としました。おじぃとはぐれたのは艦砲射撃の合間をぬってカー(井戸)に水をくみがてら手足を洗いにいった時です。先に壕に帰ったものと思って戻ってみるといません。次の壕に移る合間探しましたがそれっきりでした。母の足が弾で貫通したのもこの頃です。ナミザトという民家に大きな自然壕があり、たくさんの人が入っていました。でも、ここも日本兵が上からの命令で夜の8時までに出ていくように強制されました。畑の道を隠れながら逃げます。私は頭に水汲み用の歯釜を2つ被っていたので、釜が触れ合って音がすると“しっかり歩け!”と怒鳴られました。この頃になるとアメリカ兵は探知機で探し出すと言われていて、ある壕の中で1歳ぐらいの女の子が騒ぐので殺そうかと大人たちが相談をしていたのを聞きました。食べ物はほとんどありませんでしたが、飼い主がいなくなった牛や馬を大人が解体した時は大変なご馳走だったと記憶しています。おじぃに次いでおばぁとも井戸の水汲みで離れ離れになりました。井戸に人々がおおぜいつめかけ争って汲んでいました。おばぁは歯釜で汲み、私は一升ビンです。小さいので大人に突き飛ばされて井戸に落ちたところを男の人が引き上げてくれました。そうこうしているとおばぁの姿はありませんでした。私が汲んだビンの水は10数名で飲みました。6月21日捕虜になりました。アメリカ兵が銃を構えているのが見えました。老人は殺さないだろうということで先に立て壕から出ました。振り返ると自分たちは隠れているつもりでしたが風呂敷包みの荷物が壕の前にあり丸見えでした。トラックに乗り知念の収容所に入れられました。半年ぐらいして青空学校が始まりましたが、ちゃんとした勉強はできませんでした。親戚を頼って地元に帰りましたが父方の叔母に引き取られ、いろいろあり学校にはいきませんでした。中部にある軍のレストランで働くようになり、それ以後は自分の力で生きてきました。ただ、勉強していないということは生活上、仕事上困ることがたくさんありますが、それ以上に人前では控えめになりますし、ひがみが出ます。
 夜間中学は楽しいです。好きな教科は英語です。シンガポール生まれということと、青空教室の時に地面に竹で自分の名前をアルハァベットで書いてもらったことが忘れられないからでしょうか親近感があるのです。(J・Uさん談)