>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第21号
連載・聞き書き   その18

 去年の新聞でこっちの夜間中学のことを知りましたが、埋まっていたので1年待ちました。東京方面に長いこといたので、沖縄に帰って夜間中学のことを役所に問い合わせしましたが、無いとのことであきらめていました。前からなんとか学校に通いたい気持ちがあったのです。実は若いころに東京の江戸川区にある小松川三中の夜間教室に入学したことがあります。ただその頃は生活優先でしたし、残業が多く地方への出張もあり、何日か通っただけでした。
 小学校1年の一学期は学校に通いました。みんなは洋服を着て、靴をはき、教科書、エンピツを持っていました。貧乏だった僕は裸足ですし、はいているズボンもボロボロに裂けてスカートのような状態です。ノートも画用紙のような紙を5〜6枚つづったものでした。教科書がないので隣の人をのぞくしかありません。そうすると先生に大声で「よそ見をするな!」と怒鳴られます。一番応えたのは爪の検査です。手を机の上に乗せていると先生が周ってきて、持っているムチで思いっきりブチます。痛さよりその屈辱感がたまりません。親は子供のそんなことにかまっている余裕なんてない暮らしなのです。親に行っているふりをしていましたが、10日目ごろに先生が来ました。どうして来ないのかというので理由を話したら、それっきりでした。当時の先生はエラク、怖い存在です。今もその先生の名前を覚えています。
 学校に行こうと思えば行けたチャンスがもう1度ありました。13才の時です。その時はもう働いていましたが、両親が亡くなって下の兄弟は児童園で育てられていました。自分も望めばそこに行って学校に通えたかもしれません。しかし、訪ねて来た叔父の「お前、今さら学校に行くなんて恥ずかしくないのか」という一言であきらめました。実は8才の時、今でいう人身売買で糸満に売られました。21才までの年季で売られたのです。姉2人もそうでしたから、次は僕の番が来たんだと受けとめたような気がします。糸満では「いとまんうい」と言って子供を買い、漁師に育てるのです。ですから僕以外にも宮古島の人とか子供はたくさんいました。素潜りをさせられます。魚や貝なんでも捕ります。ボタンにする貝もたくさん捕りました。追い込み漁もします。今は禁じられていますがドカン(爆発物)もやりました。海に出られない日は山に薪採りです。伸び盛りのころに重いものを持ちすぎて背も伸びませんし、両ひざを痛め今も辛い状態です。一番重かったのは網です。きつい労働でした。苦しかったです。中学校を出ていれば人生は180度変わったはずです。
 20才ぐらいまでは自分の名前をひらがなで書けませんでした。その後みようみまねで覚えました。21で平塚に行き、溶接の仕事につきました。溶接協会に入り技術を学びました。計算問題が出来なかったのですが友人が掛け算、九九を教えてくれて3日ぐらいで覚えました。その後、がんばって溶接の7種類の免許をとりました。新しい仕事をやるチャンスがあったのですが、三角比が分からず、悔しい思いをしました。基礎があればとほぞを噛む思いでした。溶接の仕事はかなりの腕前になり、独立して仕事を請け負うようになりました。見合いで結婚し、書類等は家内が引き受けてくれました。造船、野球場のドーム、高層ビルなど難しい仕事に携わりました。こうした溶接はすべてX線をとって検査をしますから手抜きはできません。バブルがはじける前まではかなりの収入もありました。3年前に沖縄に帰ってきました。
 夜間中学に入って良かったと思います。数学はできますが、役立つから基礎からやりたいのです。漢字は自分の努力で覚えるしかありません。書いて書いて、読み仮名はつけずに覚えるようにしています。6年生までに習う教育漢字は易しいようですが、まだ4〜5つは書けないものがあります。自分にとって一番難しいのが発音、長音や促音がうまくできません。これがマスターできればやりたいインターネットも楽になるはずです。3年間でできるようになるつもりです。(O.Wさん)


 ★21号の発行は開校5周年の日にあたります。そこで今回は聞き書きの他、日本語の授業で書いた2005年度1年生の「古い記憶」を紹介します。

  「タンメーとオーダー」            
 私が六才か、七才の頃だと思います。
 おじいさんと、弟と、芋掘りに行った事は覚えていませんが、帰り道の事です。おじいさんが、てんびん棒をかついで、かたっぽうのオーダー(もっこ)には芋を入れ、もう片方には弟を入れて家に帰りました。私はオーダーのひもをつかまえて、後から歩いていました。途中で自分も、オーダーに乗りたくなって、私も乗りたいと云いました。
 イャアヤ、シージャ、ヤクトウ、アッチルスンドー(あんたは年上だから歩くのよ)と云って乗せてくれません。足が痛くて歩けないと云ったと思います。しばらくして、私はオーダーに乗っていました。弟はオーダーのひもを、つかまえて歩いていたのを、つい最近のことのように思います。

  「こどものころの父のおもいで」        
 私が三才のころ、父はおもいでにさとう作りをしていました。ははがすでになくなっていたので、父は私を一人のこすことができずにしごとにつれていったようです。そのころはいつも父の手まくらで、いっしょにねていました。父がいっしょじゃないとねむれませんでした。
 いつも父からはなれないので、十六才上のあねによくしかられていました。こどもなりにがまんして父についていかないようにしました。
 六才のとき一人でるすばんをしているときかっているヤギがメェーメェーとあまりにもなくのでえさをあげようとおもいはたけにいくとちょうどそこにカマとクワがあったのでクワをつかいいもをとろうとしました。いもばたけの中にあっちこっちにさとうきびのねがあり、たまたまそのねっこに"クワ"があたってしまい、はんどうでクワの刃がほっぺにあたりきれて血がたくさんながれました。そのときは、けがをしたことをおこられるのがこわいのでかくれていました。のどがかわくとさとうきびをたべました。つかれたのでうとうとねいってしまいました。
 そのころ、村中の人たちは私がいないことで大さわぎしていました。私をなかなかさがすことができませんでした。私がねているとき、しらないおばさんに「えーカメコ、おきなさい。こんなところでねていたらだめよ。お父さんがしんぱいしているから、おうちにいっしょにかえろう。」と、声をかけられました。私がおばさんに手をひかれていえにむかうとちゅう、ふとふりむくとおばさんはいなくなっていました。
 ふしぎにおもいながら一人でうちにかえると、かぞくや村人の人たちがびっくりしながらよろこびました。父はどんな人だったかとくわしくわたしにきいたとき、しぐさやきもののようすから、なくなった母だといってびっくりしました。
 私はなくなった母にたすけられ、はじめて母のかおをみました。

  「一番古い記憶」             
 私が二才の頃父姉妹が戦死、その後私と弟と母との三人でくらしていました。母は夜が明けないうちに仕事に出かけて行きます。母はこっそり起きていきますが、三才になる弟はすぐに起きて泣きます。外はまだ暗いのに私は弟をおぶって外へ出てあやしていました。
 毎日そんな生活ですので寒い時は弟と一緒に泣くこともありました。天気のいい日に朝、まんまるいお月さんを見つめていると、自分の前に落ちて来るような気がして家の中に、入り、カギをかけたことを覚えています。子供の時はいろいろ空想して怖がりました。
 しばらくして、母が病気で亡くなりました。私が七才頃でした。亡くなる前に夜中、私を起こしてあんたはヤッチーの所にいきなさいねといわれました。私が嫌というと、あんたはおりこうじゃないからいくのよと母に言われました。おりこうするからいかないようと、わんわん泣きました。その翌朝母は亡くなりました。すごく元気だったのに一晩で亡くなりました。吐いたり、くだしたり、その頃は病院もなかったそうです。朝になって伯父さん伯母さん達が集まってきていました。もう最後だからアンマーを見ておきなさいと言われましたが嘘だと言ってにげだしたことを思い出します。
 その後私は義理のお兄さんの所でお世話になりました。私の下に五人の子供がいましたので勿論わがままは、出来ません。いつも我慢していました。
 私には、お爺さんとかお婆さんなどいませんので、だきしめられた事は一度もありません。ですから子や孫の為に健康で長生きしたいですね。

   「大好きだったおばあさんのこと」           
 私はだいすきだった、おばあさんのことを思い出しました。三才になったかならないかのころのことです。おばあさんが、私をかわいがりますと、いとこの三才年上のおねえさんがやきもちをやき、いつもいじめられてないてばかりいました。それでも、おばあさんが大好きで、母親がおばあさんのところにいくよと言うと大喜びをしたものです。
 母親は本家の畑で、テイールにいっぱい、いもをほりかえるというので、私はすぐにおばあさんにしがみつき、かえらないといって、なきじゃくり母親はとうとうあきらめて私をおいてかえりました。おばあさんは私をふところにいれて、ねかしてくれるのです。それがよけいにうれしかったんだと思います。
 それからニ、三日いとことけんかをしながらあそびあそび、かえることになりました。いとこのねえさんの、上の上の、おにいさとかえることになりました。
 このおにいさんは、いまで言う中学一年のおにいさんで、だいすきなおにいさんで、私をおんぶして、ぶらくうちのしんせきの家までいき、そこから自転車にのり、うしろに私をのせてのせて、うちまでつかれてかえりました。
 かえるとちゅうで、自転車をひっくりかえし、二人とも手足をすりむき、いたい思いをしながらうちまでたどりついたようです。
 それから、何十年ほどかして、おにいさんはへいたいにとられたそうですがそのままかえらぬ人となったとのことです。
 だいすきな人であったおにいさんがせんししたことをしって悲しい思いをしたのをおぼえています。

  「私はカッパ」                  
 私は台湾で生まれました。五、六歳の時いつも口笛を吹いていました。口笛の音が聞こえなくなると母は私をさがしに出たそうです。
 小学校一年の時、父が学校疎開の「クジ」を引き、疎開をすることになりました。それで、前髪が長いので、姉に床屋に連れて行くように父がいいつけました。だが二人とも夕方まで遊び床屋に行きませんでした。姉は心配して、私の前髪をハサミでジョキジョキ切り、カッパにしてしまいました。二人で泣いていると父が帰って来て、又びっくり。疎開の日が来ました。帽子を深く被され、集合場所に行く道の側に大きなエントツがありました。とても高い事を覚えています。親と離れるのは初めてです。七歳です。それにカッパです。髪は伸びますが、帽子は手放せません。
 今も昔の話しになると、姉妹四人で泣き笑いです。姉はいつも「ごめんねぇ」と言います。
 疎開先から帰って来た時、駅には誰も私を迎えに来ていません。私は皆が歩いて行く所に一緒に歩いていました。ふと振り向くと、大きなエントツが反対方向に見えました。私は、父に手をつながれ、エントツの側を通ってきた事を思い出し、一人で引き返しました。私が住んでいた官舎は焼け跡になっていました。そこに座ってまわりを見ると、母のミシンが黒焦げになってしました。母がいつも私達のワンピースやブラウスを縫ってくれていたミシンです。しばらく座っているとしらないおばさんが、父がいる官舎に連れ行ってくれました。夕方になって父と姉に会い駅前の広っぱにある屋台で食事をしました。
 沖縄に引上げてきたのは四年生です。今でも、昔の話しが出ると必ずカッパの話しをして、皆で笑います。

  「古い記憶」
 毎日の生活に追われ過去を振り返ることは人は、そうあるものではない。でも生活の節々で古い記憶が、ふと何かの拍子に蘇ることはあります。
 悲しいことに、それは苦しいことが多く楽しいことは数少ないものです。苦しいことを思い出すよりは楽しいことの方がいいので数少ないものから極力探すことにします。
 私の記憶に、はっきりと刻まれる時代は、日本が高度経済成長期に入り始めた頃だと思いますが、しかし、まだまだ私の居る田舎までは、その波は打ち寄せては、きませんでした。
 そんな騒がしい時代でも私、並びに友人達は田舎独特の遊びに夢中になり過ごしていた様に思います。女の子は普通に、ゴム飛び、まりつき等それに飽きると私を筆頭に木に登り始めて大人達に、よく叱られたものです。
 その時代は遊びといっても弟や妹の子守りをしながらですので、いつの間にかその弟や妹を利用して遊んでいました。
 家の近くを緩やかに流れる川があり、その流れに洗濯だらいを浮かべて、その中に小さい弟や妹を座らせ両手で洗濯だらいの脇をつかませるのです。そのたらいの中の子供は不思議に動かないで座っていてくれました。
 流れに沿って、そのたらいを支えながら川を下るという遊びなのです。何度かひっくり返ることもあり、私の弟は水をかぶってしまうこともありましたが事故につながる程のものではありません。
 夏は川で遊ぶのが皆、好きでした。手長海老を素手でつかまえたり、とんぼや蝶々もつかまえるのが私の得意技です。
 あっという間に子供は成長し、その弟も今はおじさんになっています。もちろん私もあっという間におばさん。ですから「人生は長いんだからね」という言葉は使わないようにしています。
 昔、遊んだ友人達も何人か、その田舎の近辺に住んでいますが、今でも手紙や電話で交流を続けています。
 故里は遠きにありて思うものだという詩もありますが今の私は、そんな心境なのでしょう。
 昔、故里を出た時から、すぐに故里に帰りたい願望をずーっとも待ち続けています。きっと、いつかは故里に帰り、そして、そこで住みつき、又、昔の友人達と、あの良き時代に少しでも近づけたらと思っています。

  「父の思い出」                   
 私の父は、首里から那覇へ荷物を運ぶ馬車を持っていきました。そのため毎朝、仕事の前に馬のえさにするため草かりに行っていました。今の首里駅の近くにあった我が家から、西原向けに坂を下った所にある祖父母の家まで往復三キロの道のりを朝飯前の日課としていたそうです。
 当時は五才で、父の馬車の音をおぼえていて、いつも帰りを待っていました。その音を聞きつけると、うれしくて一目散に外へかけ出していったのを、今でも昨日のことのように思い出します。
 また家ではにわとりを飼っていました。たまごを産ませて大事なたんぱく源として食べていました。それに、ひよこにしたこともありました。
 ある日、父が犬を買ってきてくれました。ポチと名付けてくれました。新しく家族が増えたようで、とても嬉しかったのを覚えています。
 こんな風に、父と飼っていた犬との思い出は一緒になっていて幼い頃の楽しかった日々を彩っています。

  「一番古い記憶」                 
 私は、一番古い頃の記憶は、五才の時大好きなお婆さんと4才違いの叔父さんと一緒に海へ潮干狩りに行った時のことです。小エビや小魚をかごいっぱいにとりました。お婆さんがそろそろ帰ろうかと言ったのでお婆さんのあとをおいかけ、小石につまづいて転んでしまいかごの中の小エビや小魚をすべて海に流してしまいました。私はお婆さんや叔父さんにおこられるのではないかと思いましたが、叔父さんは仕方ないさーと言って私をしかったりすることはありませんでした。そのあとのことははっきりと覚えていませんがやさしく笑っていた叔父さんの顔は今でもはっきりと思い出すことができます。  そしてもうひとつはっきりと覚えている叔父さんとの思い出があります。私が7才の時、叔父がキビ狩りのアルバイトでもらった給料で私にリンゴを買ってくれたのです。私は、丸ごと一個のリンゴを一人で食べるのは初めてでした。そのあまずっぱいリンゴの味は今でも忘れることができません。

  「十七歳頃の思い出」    
 私の一番古い記憶は十七歳頃の思い出です。私は六人兄弟の次男です。
 私は二歳六ヶ月頃からの事をみんな覚えています。今でも瞼を閉じれば現実のように目に新鮮に浮かんできます。私は父母に対していつも良い思いでは有りません。嫌な思い出ばっかりなので子供の頃の思い出は、思いだしたく有りません。父や母は大嫌いです。
 でもこの世に私を産んでくださった大切な両親です。心の底から父母に感謝の気持ちでいっぱいです。という訳で子供の頃の思い出は省略させていただきます。
 私の記憶は十七歳の頃からの思い出です。僕は十七歳の時から泊港で漁船に乗ってマグロ漁をやっていました。
 最初に行った所は、神奈川県の平塚です。小さな鉄工所です。そこで溶接の仕事の見習から始めました。私の本当の目的は鉄工製品の製作でした。でも学問がない為に僕の希望は夢で終わりました。本当に残念に思いました。学問がない為に会社の従業員にも、馬鹿にされて沖縄の人はどうしてそんなに頭が悪いのかとか、沖縄はみんな英語ではないのかとかいわれ、大変ショックでした。でも私の友人もそうでした。自分の名前すら漢字で書く事すらできなかったので無理もないと自分自身もそう思いました。会社の中では自分の名前すら書くことができないのに鉄工関係の仕事ができる訳がないといわれ、その時ほど学問の重要性を感じた事はありませんでした。私の大好きな言葉の中に「努力に勝る天才は無し」という言葉が有ります。私でも頑張ればできると心に決意して勉学に励みました。仕事を終えた夜中一時二時まで毎日やりました。勉強が辛いと思った事は一度も有りませんでした。私は勉強が大好きです。楽しいです。私が勉強始めて三年が経ちました。その頃から会社の方々も何も言わなくなりました。それから私は、日本溶接学校に入学して、溶接免許、第三種半自動溶接とボイラ溶接、一級免許計、十七この溶接免許と、自動車免許、「大型第一種免許」を取る事ができました。仕事も責任のある部署に回されて、みなさんと同じ職場で働く事になりました。本土の方には絶対に負ける訳にはいかなかったのです。今になって思えば懐かしい思い出です。会社のみなさんがいなければ現在の私はなかったかもしれません。  でも人生って不思議ですね。「校長先生」「本土の方に馬鹿にされて来た私ですが、今珊瑚舎スコーレの皆様の御蔭様で私の第二の人生に希望の光を与えてくださり本当に有難う御座います。これからも何かとご迷惑をおかけすると思いますが、何とぞ宜しくお願い致します。我が母校珊瑚舎の先生方、並びにボランティアの皆様には心の底から感謝申し上げます。本当に有り難う御座います。

  「一番古い記憶」                  
 私はフィリピン、ミンダナオ、カテガン高地「リイ組」で昭和十一年一月二十五日に生まれました。父母が、移民でした。麻山がありました。現地の人をやとって、麻を切り倒して糸のようにしてよくトラックでダバオの町に売りにいきました。私はよく父といっしょに行きましたので楽しかった思い出があります。
 私は早生まれでしたので七歳で学校にきました。近所にはおなじ年の子がいなかったので、一人でかよいました。登下校はさびしかったです。自分はとってもおくびょうでしたので麻山の間をとおる時、とおまわりをしてあるいていました。近所の犬がいつもほえていました。その犬が子供を生んでいたそうで、私は突然かまれてしまいました。自分の子そのあと登校の途中にヘビがとぐろまいていたこともあります。とってもこわかったです。
 かえる途中、よくドリアンがおちておりました。ドリアンはじゅくすると草むらにおち、においでわかるのです。よくひろってかえりました。そして兄弟で食べました。あじはアイスクリームにどくとくのにおいがするよかんです。そのせいかしりませんが、いまは家のあった所にはドリアンの木がいっぱいはえているそうです。それをきくと、一度はいって見たいきもちです。

  「古い記憶」                          
   私が二十二歳の年に長女が生まれ、その時に、母と妹がお祝いに来てくれました。三人で父の思い出話をしました。私が母に父の事を聞きましたら父が戦争に行くためお隣の方々がお祝いに見えた時のことを覚えています。皆さんとお酒を飲んでいた父が羽織袴を着て居ました。背が高くハンサムでした。体ににあわず優しい声でハツ子ぉと私の名前をよびながら泣いて抱きしめいました。今思うと悲しく淋しく、もう、生きては帰れないと思って居たのでしょうね。私は数え三歳だったそうですよ。絶対に戦争はあってはいけない。
 子供や孫のためにも皆さんもそう願うと思います。父は戦後昭和二十三年に帰ってきました。私は懐かしく、でも父の顔を見るのが恥ずかしくて、にげていたら父はおいかけて来てどうしたのお父さんだようと言って私を抱きしめて元気だったかいと言ってくれてとってもうれしかったです。

  「戦争前の記憶」                      
 私が小さい頃古波蔵駅の近くに住んでいた。ある日、町に買物にいった。山形山屋で扇子を買ってもらって帰り人力車にのって帰るとちゅうに扇子の箱の底が抜けていたのだ。私はないないと言って大騒ぎ。私泣き旭橋から家につくまで泣いている私に母は頭から水をかけた。それで泣きやみ、それから母のひとこと、人を羨むことはいやしいと言っての覚えている。強く心の中にのこっている。
 それから汽車にのり嘉手納駅から客馬車にのって桃山に山桃をとりに行く途中に村の子供たちが追い掛けてきた。なんと鼻水がいったりきたりしているのを私はいつかおちるかなとすっと見て馬車にゆられてねむったと思う。家に帰ってスリ鉢にいれて塩をまぶし食べたら甘くすっぱくてとっても美味しいと思って、いつまでもあの頃の桃山があるかなあー、できれば行ってみたいです。

  「私の一番古い記憶」                     
 夢を追いかけた青年期、怖いものなどなにも無かった青春期、親の大きな愛情に、どっぷりとつかり、まわりの優しさに甘えて過ごした幼い頃、夢のような遠い昔を振りかえりますと、私の記憶の始まりは、「家の思い出」が、よみがえります。
 私は、九州、熊本県の、阿蘓山の麓で生まれましたと、折りに触れ母から聞かされていました。又、熊本城を間近に見える熊本市内の、竹薮の中に竹を利用した小屋を造り住んだこともあったそうですが、当時の記憶は、まったく無く、昭和二十年頃に、一家で移り住む、大阪市内の大正区の情景が思い出せる、私の遠い記憶です。
 大阪の大正区は、早くから沖縄の方達が、多く住み着き、「沖縄部落」と称されていました。記憶の断片を遡れば、当時まだ走っていた、路面電車の「北恩加島」の停留所に、程近い、色々なお店や商店に芝居小屋などのならぶ、大通りの辻からひとつ中に入る裏通りの、古い家や長屋のような共同住居が、雑然とひしめきあった住宅地で他人の庭先に建てられた、木造平屋のバラックでした。
 何かの祝いの日に、酒を飲んで、ひっくりかえった事や、家の内に居ながら屋根と天井の梁のあたりから雪が吹き込んできたのを、今でもはっきり覚えています。
 何故、この家が記憶にあるのかと思えば、ある晩この家が火事になりました。  文字通り、焼け出された夜の、騒然とする現場の道端で、わけもわからず、私は三〜四才、兄達も、まだ幼くてただ小犬のようにブルブルと震え母にしがみついていました。
 それより以降、同じ大正区内を転々と、引越しを繰りかえす生活が始まりました。
 その後、私の弟達が生まれましたが、生まれた家は、別々で、私の兄弟は、男ばかりの五名ですが、全員生まれた家が違います。

  「戦争世(いくさゆぅ)」                              
 今だから話せる、遠い昔の一部分。
 戦前 正月に、父と、兄と、私、の三人で親せきの家へ行くことになりました。母の手作りで初めて、はれ着を、着せてもらい、うれしくて、はしゃいでいました。母に、おとし玉をもらったら、家にかえってから、あけなさいと、いわれました。
 ほかには、外で、大きな木のたらいに水と、お湯を入れ母が、頭をあらうため、私をわきにかかえ、頭をさかさまにして、ゴシゴシ、あらいました。私は、わぁわぁ泣いたことを覚えています。三、四才の頃のことだと思います。
 また父と兄と私が、夕すずみのため、ちかくのちょっとこだかい畑の前の、小さな広場で月をながめました。その時、ほたるをおっかけて遊んだことを覚えています。父との思い出は、あまり、あそんだことはなく、顔は覚えていません。いつ戦争に、かりだされたかもわかりません。空襲警報が伝えられて、隣組と山原へ行くことになりました。生まれてまもない赤ん坊を入れて、母と五人の子をつれて避難するのだから、今思えば、母にとっては、とてもじゃないけどできることではなかったと思います。母が、赤ん坊をおぶり、下から二番目の弟を兄がおぶっていました。みなさんと一緒に行けるわけがなく、避難先、山原の大宜味村、大保までの道のりでは、敵の飛行機がとんで来ると、弟はわぁわぁ泣き出し、そのたびごとに、ビュービューボンと、弾のおちる音がきこえました。私たち家族は、山の中に入れず、道ばたぞいの場所で難をしのぎながら、昼間は、じっとして夜に歩きました。
 母は、家を出る時に、ふとんに、お米をくるんで頭にのせ、背中に生まれたばかりの弟をおぶり、片手には、ナベをもち、もう一方には荷物をもっていました。今考えると、とっても考えられないことです。
 はりつめていたせいか、ひもじい思いはしなかったと思います。それでも母は、たべものが、なくならないうちにと、わたしたちを、ねかせ、鉄砲の音がなりひびく中、ちかくの家々をまわり、食べ物をさがしにいきました。サトーキビと、すこしのべものなどをもってきました。そのまに、カンポーシャゲキは、ひどくなるばかりで、こわくて毎日ぶるぶるふるえて、うずくまっていました。もくてき地の大宜味村大保につくまで、四十五日かかったそうです。つくとすぐ、その日に捕虜になりました。
 アメリカの兵隊が大ぜい、じゅうを持って、私たちをとりかこみました。私たちは畑の中に立たされていました。そのうち英語が話せる人がいましたので、なにやら、しゃべっていました。おとしよりの人たちは、泣きながら、みんな、戦争のヒチャビイチイニ、ナインドと、わめいていました。アメリカの兵隊が、みんなを、ならべて山の上から、下の部落まで歩かせ、大きな橋のそばの一けん家で休み、手足を洗って、そこから、トラックで羽地村尾次へつれていかれました。そこでも苦しい生活がまっていました。私たち五人の子を一人で食べさせるための「母の戦争」が始まりました。羽地仲尾次につくまでは、元気なように、見えた母、気苦労が出たのか、産後ねつで倒れました。隣にすんでいる同じ避難民の人たちのおかげで、たすかりました。
 まだまだ、なおっていないのに、それでも弟をおぶって、ミイ芋ほり、となり村までたべものをさがしに行ったり、山にまき取りに行ったり苦労しました。アメリカからの、配給はメリケン粉、その他食品と古着の洋服など、洋服は食品と、ぶつぶつ交かんしました。その後、栄養失調とか、マラリヤでバタバタしゅういの人々がたおれ、私の家族も、れいがいではなかった。いく日か、すぎて、アメリカのえらい人たち、ラグダスとか言うアメリカの兵が、子供を集めて学校をつくるようにとかいっていたような記憶があります。その後、眞喜屋小学校が出来ました。
 ちょうどその頃、父の戦死の知らせがありました。母の話では父は南風原の山川で戦死したそうです。五、六人がいっしょに戦死し、どれが父のなきがらかもわからないほどだったのです。母はそれぞれの人たちといっしょに身内らしいなきがらを、カマスに入れてつれていったと、ききました。
 私たちのおはかは、古島の基地内にありますが、中には、入れず入口ちかくの、岩山の穴の中に、いつか、迎えにくるからと手をあわせて、私たちが、まつ、羽地へかえて来たとあとから人に話すのを聞いたおぼえがあります。私はそんなかなしいできごとが、あったことすら知らされずに、ヘイヘイボンボンで、母のいない間は兄の手つだいや、弟たちと野草をとったり、野イチゴ摘みや、ミイウンミーほりなどやりました。那覇では、上の兄から順に新聞配達しながら兄は高校、大学と進みました。苦しい中でも全員横みちにもそれずに生きてこれたことが何よりのほこりです。