>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第20号
連載・聞き書き その17

 沖縄戦が終わりのころ南部を逃げ回っていました。豪というより岩かげにゴザを掛けて潜んでいたら米兵に見つかり、いきなり殴られたようなショックをうけました。母と私、妹、いとこの4人です。いとこはここで死にました。母はタンカに乗せられて運ばれたのですが、目を開いていたので生きていると思っていました。母とはそれっきりです。妹は足に怪我をしており歩けませんでした。米兵に抱かれトラックに乗せられ、着いたのは宜野座の孤児院でした。妹は怪我のほかにひどい下痢をしていて、私が学校に行っている間に病院に移されていました。今思うとあの下痢は沖縄でいうスブイワタ(赤痢)だったと思います。しばらくして伯母が病院に行ったら妹はもう居なかったそうです。妹とともそれっきりです。いまだにひょっとしたら妹がどこかで生きているのではと考えることがあります。
 私は広島や長崎に行っても原爆資料館に入りません。入らなくても想像できますし、苦しくなるだけです。大きくなって運転免許をとったのも母の遺骨を探すためでした。でもあの頃とは地形が変わって未だ探せません。孤児院から母方の祖母にあずけられました。小学2年になりましたが学校は勉強どころではありません。大半は校舎作りです。地面の上に草をかけただけの校舎とも呼べないようなものでしたが、連日草刈りでした。台風ですぐ飛ばされるのでその修理も大変です。薪拾いも日課でした。栄町のチリ捨て場を探し回ったものです。教科書もなく、黒板を写すだけでした。九九を習ったことだけは覚えています。イラクはテレビで見るかぎり屋根がありますが、アフガニスタンの様子は沖縄のあの時代にそっくりです。小学5年の時、先生に誕生日を書くように言われましたが分かりませんでした。祖母に聞いたら祖母も知りません。仕方がないのでその日、6月23日を誕生日として生きてきました。
 小6でお手伝いさんになりました。給料はすべて祖母の手に渡ります。それでも家で祖母にこき使われていたことを思えば楽なものです。孤児院に置いておいてくれたら中学校ぐらい卒業できただろうと何度も思います。18才でパーマ屋の見習いになりました。免許をとるには試験を受けなければいけません。学校を出ていないことがこんなに大変なことかと知らされました。問題集をとにかく丸暗記するしかありません。この頃、祖母が亡くなりました。天涯孤独、一人ぼっちです。父は戦中ハワイにいて、帰ってきた後は再婚したので、親子の関係は一度もありませんでした。
 20才でプラザハウスに就職しました。そこのお客さんに教えられてライカム(米軍施設)の試験を受けました。学校を出ていないので自信がありませんでしたが、面接と実地だけで受かったのです。私とマニュキアガールと二人一組で仕事をします。予約制で米軍関係の家族が客です。シャンプー、パーマ、セットを一人でやるので遣り甲斐があり楽しかったです。ただ、女一人で住んでいるので男たちがうるさくてたまりません。結婚すればこうした事も無くなると思い結婚しました。そうでもなければ結婚しなかったと思います。
 人が怖く、信用することができません。主人は勤め人でしたが二階に15人の下宿人がおり、子供3人をかかえその賄にあけくれる日々でした。姑が山ほどの借金をつくり亡くなってからは、その返済が大変でした。夫は家庭を省みない人なので離婚しました。子供の籍は夫のほうですが育てたのは私です。その後はビルの管理人などをしながら生きてきました。自分のことを考えると子供、特に娘には一人でも生きてゆけるようになってほしいと思い育てました。
 大リーグの野球中継が大好きです。いつもは野球を見るのですが、あの日はひょっと夕方のニュースを見ていました。そしたら夜間中学のことが流れました。あーこれだと思ったのですが、あわてんぼの私ですから1日待って自分の気持ちを確かめて電話をしました。
 一度、県に夜間中学のことを問い合わせしましたが、ありませんの一言でした。遅れているので休まず通うつもりです。英語ができるのが嬉しいですね。読み書きができるようになったら、FAXで意見や感想を送れるようになりたいのです。(S.Sさん談)