>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第18号
連載・聞き書き その15

 一昨年、新聞で「こんばんは」の上映会があると知り、見に行きました。講演者の見城先生のサイン入り本も買いました。通信教育には中学はないので内地に行こうかと考えたこともあります。
 小学校2年までは通っていました。2〜3才だった頃、父は兵隊に行っており母と子供5人暮らしでした。隣近所の人たちとヤンバル(沖縄の北部)に疎開することになりました。でも私たち一家は足が遅く途中で着いて行けずはぐれてしまいました。なにしろ母は疎開前日に妹を出産したばかり、兄弟も幼く自分の小さな荷物も持つだけで精一杯です。母は頭に鍋を、背中に布団と産まれたばかりの弟を背負い、腰の辺りに米をつけていくのです。普通は一週間程度で着いたはずですが私らは45日かかりました。普天間の豪や橋の下に泊まりながら、川沿いに進むのです。赤ん坊が泣くので他の人々によく追い立てられました。そんな中、母はおにぎりをつくってくれました。今思うとあんな状況でどんなしてつくったのか不思議です。それだけでは足りず畑のキビを盗ってかじり飢えをしのぎました。道や川に人やウマがころがっており、私は頭巾を深くかぶりなるべく見ないようにして歩きました。目的地の大宜味村に着いたのですが、大雨で軒下にいると米軍の戦車が来ました。あわてて私一人が山奥に逃げ込み迷子になりました。さまよって夜中にホッーホッーという鳥の声を頼りに山を降りると母がいました。母は「今日、あんたーは産まれたんだよー」と抱きしめてくれました。朝までに隠れていた人たちも全員畑に集められました。話に聞いていたように戦車で轢き殺されると思い、年寄り達も泣きました。でもそんなことはなく羽地の収容所に入りました。私たちは民家の一角でした。母は無理がたたったのでしょう産後のひだちが悪く熱をだし、足がむくみ、さらにマラリアにかかりました。私以外の兄弟もマラリアにかかり一日に何度も熱を出し震えが止まりません。しかも、栄養失調でした。米軍から非常食が配給されましたが足りず、くず芋や薪を集め着物は空き家から持ち出し物々交換をしました。母は子供の具合が悪いとミミズを煎じたりカエルを汁にしました。熱がでると芭蕉の幹をたたいて頭に乗せ、葉は枕にします。ひもじい時はセミ、バッタ、ネズミまで食べました。疎開していた人々も帰り、残っているのは我が家と養老院のオバァたちだけでした。そんなある日父の遺体を取りに来るようにと連絡があり、母が那覇にでかけました。5名の遺体がころがっていたそうです。誰のものか分別がつかず5家族でどれにしようかなといった調子で決めるしかなかったそうです。墓のあった天久に持っていったそうですが、米軍の基地になっていて入れず近くの豪に置いてきたと話していました。
 小2の時、役所から命令があり、軍のトラックで那覇の救済テントに移りました。狭くて横になれません。兄達はマラリアの熱がまだ出ていましたが、新聞配達をしていました。下の弟が小学校に入学しました。でも私は疎開先で転校手続きが出来なかったので入れませんでした。母は女には学問をいらないと思っていたせいもあります。母から「あんたもいくのー、あんたもいくのー」と言われ、暮らしの実情を知っているので行きたいとは答えられませんでした。お金も支給されましたが足りず朝、昼ご飯が無いのも普通でした。母は男に混じって日雇い労務の仕事をし、穴掘りや便所の汲み取りなどは私もしました。そんな時我が家に大きな事件が起きました。兄が拾った12ドルを警察に届けたところ、貧しい一家の美談として新聞に載ったのです。それからは私にも子守りや女中の口がたくさんきました。13才で商いをし、平和通りでアイスケーキやタマゴを売りました。兄が働き余裕ができ、その後洋裁学校に入り本科、研究科まで進みました。実技はAの上でしたが、服装の歴史や論理そして作文が出来ず基礎がないことの辛さを味わいました。先生からアシスタントになるよう求められましたが、文が書けずあきらめました。その後調理の仕事につき海洋博の弁当作りから始め、病院に移りました。家族に病人が多かったので、病食を習いたかったのです。困るのはミーティングです。話をまとめたり、人前で話すことができませんし、講習会や学会に出ても必ずレポートがあります。ひらがなで書くしかありません。
 今は定年でパートになりましたが、少しでも中味をうめたいと思います。学校に通うと気持ちが晴れ晴れとします。今さら学校でも恥もないので、分からないことは聞くようにしています。習うことは楽しいですね。 (I.O.さん談)


 去年の開校を伝える新聞をみて沖縄の夜間中学の存在をしりました。義務教育未修了者対象とあったのですが、どうしても学びたくて申し込みました。
 奄美大島の出身です。両親は農業をしており、兄弟の面倒を見て家事をするのは私でした。中学校に行かないのは自分だけではありませんでしたから、そういうものと思っていました。親も学校に通わせなければといった意識はあまり強く無かったと思います。でも本が好きで郵便局の人が子供文庫のようなものを開いていたので、そこからよく本を借りて読みました。「岩窟王」や「トム・ソーヤの冒険」は夢中でした。弟が幼稚園に入れるような歳になって、始めて中学校に通いました。中学3年生の時です。父の知り合いの先生が親になぜ学校に行かせないのかと抗議してくれたのです。1,2年の勉強が抜けているので、ある程度暗記の出来る社会や国語はなんとかなりましたが、基礎のない数学、英語は苦労しました。テストで零点を取ったりもしました。卒業証書だけは貰ったという感じです。
 卒業と同時に大島紬の織り子になりました。周囲の女の子はみんな織り子になる時代です。親方のところに奉公し、見習から始めます。縦と横の柄合わせは大変で高級な紬になると点一つ一つを合わせなければならないので目を酷使します。特にドロ染めは糸が切れやすく繋ぐのが大変でした。それでも女の子が生まれると家が一軒建つと言われたほどです。実際は娘を担保に金を借りる家が多いのですが。他の職についた人はハデな女という見方が一般的でしたし、女に学問は無用なものでした。井の中の蛙というか、そうした暮らしが当たり前だと思っていました。7、8年務めました。  縁あって沖縄に来ました。自分のいた部落から見れば大都会です。なにをしてもいいんだと思える開放感がありました。が、沖縄に来てからのほうが学問が無いという劣等感が強くなりました。無学なので飲食店でしか働けません。料理を作る分にはいいのですが、忙しくてカウンターに入ってと言われただけでドキドキします。つり銭の勘定ができないのです。なんとかしようと珠算の塾に通い、伝票算で3級まで取りました。学校に行って学んだと言える始めてのことです。でも、暗算ができません。子供が学校に行くようになってからは学習書を買い、2人で一生懸命勉強しました。教えていたというより教えられていたというほうが合っています。
 今はヘルパーの仕事をしています。読み書きは好きですし、文章をつくるのも苦になりません。老人介護は自分にあった仕事だと思います。夜間中学に入りたかったのは英語を勉強したかったからです。MとWの区別がつかなかったりします。笑い話になりますがWCをMCと思っていました。でも夜間中学校ですからやりたい教科だけ受けるわけにはいきません。分かっているものでも気持ちを新たにして取り組んでいます。ひらがな一つでも形良く書こう、一字一字ていねいに書きます。
 また、入学してから心理的にも変わりました。今まで仕事先などで年上の人は意地悪という先入観があり苦手でした。夜間中学のみんなは明るく楽しい雰囲気を持っています。友人も少なく田舎に帰りたいと思っていましたが、人間が好きになれそうです。通い始めてからは仕事も張り合いが出て楽しくなっています。夜間中学に通うことについて主人は挑戦しなさいと言ってくれます。内地に住む子供に報告したらメールで一言「アキサミヨー」(びっくり!まじで)と返してきました。奄美に住む母は「えー中学校は卒業してるのに」と言います。
 通い始めてから夢ができました。いつか自分自身が夜間中学で教える人になりたいのです。世の中のいろんな資格は商売、儲けに通じていますが、夜間中学の存在は福祉の精神だと思います。その精神を培っていきたいです。 (H.S.さん談)