>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第17号
連載・聞き書き その14

 自分のような者でも勉強ができる所があったらいいねーと14〜15年前から思っていました。内地にはそういう所がたくさんあるのにとジーグイ(グチをこぼす)していました。四女が、かあさんあるよーと教えてくれましたが去年は一杯で入れませんでした。今年は中1の孫が「去年の夜間中学の新聞の切り抜きをとってあるねー、無くしたら探すのに大変よー」と言ってくれて、1月早々に申し込みをしました。
 小学校は入学どころか校門をくぐったこともありません。母は病気で私が1才の時に亡くなりました。その後姉と兄が相次いで亡くなっています。それからは父が四苦八苦して残った私たち兄弟3人を育てゝくれたのです。2〜3才からは着物の中に私を入れて、畑仕事をしたそうです。体に良いからと毎日アタビ(かえる)を煎じて飲ませてくれました。戦前は食べ物はいろいろありました。父はハガナー(器用な人)で葉野菜、芋、田芋、サトウキビなんでも作りました。ウシ、ウマ、ヤギ、ブタも飼っていました。ブタは塩漬けにして1年目、2年目と大きな甕にしまっておきます。お金が無いだけです。私が得意なのは黒砂糖作りでした。登り窯のような長い釜場がありシンメーナベより大きな鍋を幾つもかけて、次々に煮詰めていきます。美味しいですよ。12才の時、前々から思っていたことを父にぶつけました。なぜ学校に行かさないのか、他の家には役場から学校に入る通知が来ているのに、ウチには一度も来ないのはなぜかと。父は泣いてなにも語りませんでした。後で分かったのですが貧乏と忙しさで戸籍に入れていなかったそうです。娘に言われ慌てて入れたようですが、罰金のお金を取られたはずです。
 12で那覇に奉公に出ました。本当に一生懸命に働きました。給金は袋ごと父に渡していたので、奥さんが可哀想にと50銭の小遣いをくれたこともあります。着るものがなかったので帯をほどいて洋服を作ってくれたり、時には旦那さんに波の上神宮近くでステーキをご馳走してもらいました。金持ちのお宅で旦那さんが銀行にお金を預ける時はカシガー(米袋)に入れて担いでいきます。私は後から見張り役で付いていきますが、ドキドキしましたよ。5年間この家で奉公しました。
 17才の10月に大きな空襲があって父の元に帰りました。その頃は兄が出兵していたので父、兄嫁、甥、姪の4人が暮らしていました。戦争がひどくなり屋敷と畑を取り上げられました。それからは一家でさまよい歩きました。全てが混乱していて、こっちに行けと言われて行くと、あっちに逃げろと言われ、どこへ行ったらいいのか分からない人々が大勢うごめいていました。雨の多い年でしたが、着の身着のままです。サトウキビを齧ってしのぎました。
 父は6月19日に米兵に鉄砲でやられました。米軍の囲いの中に入っているようなもので身動きできませんでした。その3日前、あるガマ(濠)に潜んでいた時です。ガマのこっち側と向こう側に分かれて座っていると、兄嫁のいた側に手榴弾が投げ込まれました。たまたま甥と姪は私の腕の中に座っており、自分の体を覆いかぶせて無傷でした。一瞬の出来事です。兄嫁はもう口をきくことができませんでしたが、私に向かって手を合わせ子供を頼むと目で訴えています。手を振って逃げろと言うのです。立ち去るしかありません。入るガマもなく道端の陰に隠れるしかありませんでした。この10日間ぐらいは水しか口にしていません。
 6月23日は沖縄戦の慰霊の日ですが、私は20日南部の摩文仁で捕虜になりました。疲れきって何も考えられません。よく生きたねーと思います。しばらくして、父と兄嫁の遺骨を拾いに行きました。覚えていたはずなのに、探しきれません。東西南北に拝みしてようやく見つけました。どうやって運んだらいいのか分からず、とっさに自分が着ていた服を脱ぎ頭だけは包んで持ち帰りました。でも、その頃身を寄せていた姉が他人の骨だったらどうするのかと言うのでCP(巡査)を連れて行って確かめ、すべての遺骨を収集しました。父と兄嫁が私を見守ってくれているはずです。だからこんなに健康で子供8人も産めたのです。
 戦争は人を狂わせます。女一人と小さな子供だけで暮らしていると内地の敗残兵や防衛隊が家の周りをうろつき、怖くて夜は押し入れに入っていました。そんな時子供も含めて面倒をみてくれる人が現れ一緒になりました。子供たちは兄が復員するまでちゃんと育てました。那覇に出てからは本当によく働きました。夫は体が弱かったのでウチにいてもらい、もっぱら私が商売しました。アイスケーキやタンナフアクルーを国際通りで売ったり、果物屋、刺身屋、テンプラ屋なんでも商いました。だから暗算だけはできるのです。ムル(とっても)難儀な仕事でもいいものを売り、自分も儲かり、相手も幸せになることを心掛けてきました。自分は勉強をしたことがないから子供にはぜひ学校へ行ってほしかったので仕事を手伝わせたことはありません。みんなおりこうに育ちましたよ。
 80近くになって今更学校に行ってどうするかって言う人もいますが、少しでもなんでも分かってみたいのです。耳以外はまだ丈夫なので努力すればなんとかついていけるかなぁと思い、夜間中学に入る前に平仮名だけは習ってきました。実際に通ってみると難しいことばかりですが、みんなが帳面を買ってきてくれたり、ゆっくり教えてくれるので感謝しています。時間になるとソワソワしてお風呂に入って登校します。 (D.T.さん談)


 夜間中学はラジオで知りました。仕事をしながら聞いていたので、あっと思ったのですがメモを取れませんでした。ところが帰宅した夫が「あんたに役に立つかもとメモしたよ」と連絡先を教えてくれました。同じラジオを聞いていたのです。嬉しかったですね。夫が「オレだったら行かん。行こうとするあんたのその気持ちが偉い。協力するよ。」と言ってくれました。
 自分の境遇はほとんど話したことがありません。同情されるのが嫌なんです。父は戦死、母は小学1年の時に病死しました。17歳違いの兄に引き取られました。兄のところにも小さい子供が5人いました。小学校は午前中だけです。午後は薪とり、ヤギの餌の草刈、ブタの餌作り、水汲みと自分の仕事が山ほどありました。兄は自分も小学6年までしか通わなかったのと女には学校はいらんと思っていましたらから、その雰囲気の中で自分もこんなにしてまで行かんでもいいと言ってしまいました。兄夫婦はこの言葉に喜んでいました。生活が苦しかったから仕方ないのですが、小学生にはすんなりと理解できず、なぜ、なぜと悔しいばかりでした。薪取りに行きながらみんながアイロンのかかった洋服を着ていく姿を隠れて見ていました。その後免許を取ったり高校に行きたいと思う度に、あの3年間学校に行かせてくれたら、きちんと恩返しをしたのにと思うのです。
 しばらくして住み込みで洋裁を習い、見習で洋裁店に勤めていました。ある時知人から「洋裁の技術を身につけたら、その技術に嫁にほしいという人が現れるよ」と言われました。自分ではなく技術が大切で結婚するのかとびっくりし怖くなり、洋裁を辞めて軍の仕事につきました。ユニホームに憧れて、1級レストラン(アメリカ兵が利用するレストラン)でアルバイトをしたことがあったのでメニューの読み書きができたのです。軍のクラブでもオーダーが取れるので重宝されチップも良く生活も安定しました。
 同じ軍にいた主人と結婚しました。幸せで3人の子供を大学までだしました。教育費が大変な時は再び軍のランドリーの仕事もしました。でも、学校を出ていないという秘密をもっているのは苦しいことです。婦人会やPTA、地域の活動に参加していますがいつもどこか背伸びをしている気分です。努力をしつつも一歩下がって歩くようになってしまいます。大役は教養が出るから出来ないですね。夜間中学では特に文章が書けるようになりたいです。そしてずっと暖めてきた高校に入りたいです。(M.E.さん談)