>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第16号

連載・聞き書き その13

 ある時、新聞に夜間中学のことが載っていて、切り抜いたのに無くしてしまったんです。ずっと自分の通える学校を探して大事にとっておいたのにです。しばらくしたらNHKの日本列島という番組で沖縄に1校あると放送されました。沖縄のNHKに電話をしたら分からず九州まで問い合わせてくれました。ついていけるかどうか不安で様子を聞きに珊瑚舎に来たら、星野さんが対応してくれました。最初はぶっきらぼうで戸惑いましたが、話を聞いているうち温かさが伝わってきました。
 5人兄弟の長女です。生活するのが精一杯で、ものごころついた時から下の子の子守りでした。まだ首がすわらない弟の首にタオルを巻いておんぶしました。オシメを洗うのも私の役目です。頭に盥を乗せ川まで行くのは8歳の子供にとっては大仕事です。朝は5時に母に蹴飛ばされて起き、マキでご飯を炊くのですが焚き付けもなく、うまく火がつけられず石油を直接かけたりもしました。学校は軍からミルクが支給され、だんだんパンも出るようになりましたが、みんなが持っていくオカズもなかったですね。勉強より子守り優先ですし、遊んで帰ると父にベルトで脛に型ができるほど殴られました。次第にみんなに追いついていけず、分からない事が多く学校に行くのが嫌になりいわゆる"山学校"(学校に行かず野山で遊ぶこと)でした。でも遊ぶのではなく家の仕事をするためです。
 小さい頃からとっても内気でした。2歳上の幼馴染が居ないと口も聞けないほどです。中学校を形だけ卒業すると、この幼馴染に誘われ繊維工場で働き始めました。給料は10ドルです。袋ごと母にあげます。その後インド人のハウスメイドをし、中国系のお宅のハウスメイドになりました。たいへん裕福な家庭で家庭教師、夜警、ガーデン係り、運転手2人、ハウスメイドが4人もいました。車もリンカーンです。初めて口にする食べ物も多く、ウインナーソーセイジやバヤリースジュウスがふんだんにあり、オヤツはドウナツです。あの頃は楽しかったですね。ただ、いつも読み書きが出来ないことが頭にあり、どんな生き方ができるのかと呟いていました。私のような者は結婚できないと思っていました。常に人の後ろにいて、控え目にするのが習いとなっていました。後で知りましたが一家は私の月給40ドルで暮らせたそうです。軍のホール係りも勤めました。勤務が朝6時からなので初めて自分で部屋を借りました。夜はダンス教習所に通い、青春?を味わいました。ジルバも好きでしたよ。その後飲み屋に勤めていることが親に分かり、父に目を突かれ髪を丸坊主にされました。問答無用です。私も何も言いませんでした。ただ心の中では無学の者にどういう仕事があるというのかと叫んでいました。死のうと思い箪笥の中のナフタリンを掻き集めて食べましたが死にきれませんでした。父を止めようとしなかった母でしたがカツラを買ってきてくれました。
その後縁あって結婚しました。私が読み書きができないことはうすうす感ずいていたようです。籍を入れても子供ができるまで結婚をした実感がありませんでした。車の免許やヘルパーの免許を取る時は問題集に全部カナを振って応援してくれました。とにかく読み書きが出来るようになりたいです。ヘルパーの仕事で日誌を書きますが、まずひらがなで書きお家に戻って漢字に直します。読み書きが出来るようになれば今のパートから本採用になり好きな仕事にうちこめます。夜間中学は、計算、ローマ字、漢字とついていくのが大変ですが、楽しいですよ。ここは置いてきぼりにせず、出来るまで教えてくれるそこがいいですね。(U.Eさん談)


 夜間中学の2年生に知り合いがいます。私は定年退職をしましたが、ある時その人が「夜間中学に行っているよ」と言うのを聞き、興味を持ちました。3月の学習発表会も見にきました。誘われて映画「こんばんは」も見に行ってきました。自分より高齢の方が楽しそうに勉強している姿を見て、あー私もぜひ勉強しなおしたいと強く思ったのです。
 父が鉄道の仕事をしていた関係で台湾に小学4年生までいました。学校に上がった時はもう戦争が始まっていました。小学1年生6才で学童疎開です。全校生徒の中から1年生何人、6年生何人とグループ分けをされ、私は30人ぐらいで山の中で過ごしました。食べ物はありました。空襲もひどくはなかったですが、勉強した記憶はありません。終戦になり山から下りるとシナの兵隊が赤いタスキをかけ、鍋釜を持って行進していました。日本人の子供は外に出たら危ないと言われていました。しばらくして沖縄に帰れない状況だということで、引き上げ船に乗り宮崎に着きました。そこに半年ほどいて沖縄に戻りました。家は焼け姿形もありません。もちろん食べる物も無かったです。母の田舎に行き畑を手伝いながら、とりあえず4年生に入りました。学校は青空学級です。机がなく画板でした。一人10束と決められて茅を刈り、カヤブチヤー(茅葺き)の長屋を作り校舎にしました。勉強が出来る環境ができた頃に卒業です。7人兄弟で、デキヤー(よく出来る)の上の姉がお金が無い中無理して高校に行きましたから私ごときがと思って辞めました。中卒だったので通信簿を提出してR生命に務めました。なにも出来ず苦労しました。そろばん塾に通い、漢字と英語は独学しました。卓球部に入り職域部門で優勝もしました。同じ職場で主人と知り合いました。彼が仕事で内地に1年間行く事になった時、父から内地はきれいな人が多いからお前はだめだろうと言われたのです。それを聞いた彼は親と一緒に指輪、こんぶ、かつぶし、そうめんを持って来て婚約となりました。半年は手紙が一通も来ませんでした。まだか、まだかと不安でした。その間に私は友達に誘われてダンスを習い始めました。初めはダンスをするのは不良と思っていましたが、踊れるようになると夢中になりました。今でも知らない男の人でもダンスとなればすぐ手をとって踊れます。彼が帰って来た時は「結婚するねー。しないならいいよー」という度胸までついていました。職場のダンスパーティーで私が踊るとみんなは主人に向かって「むつしんかかとんと」(お金かかっているよー)と言うのですが、彼は笑いながらお酒を飲んで見ているだけでした。子供が出来て仕事は辞めました。でもじっとしていられず、お花、料理、ペン習字とずいぶん習い事をしました。主人からはいろんなことをさせてもらったと感謝しています。主人が40代で病気に倒れました。よし、私が働こうと思っても中卒では勤め先がなく掃除ぐらいしかありません。
 数年前に主人が亡くなりました。定年して一人暮らしになり気ままですが、なにか足りません。「こんばんは」の映画を見た時、分かっても分からなくてもやりたい。学校に通おうと決めました。入学してからは朝起きた時から楽しいんです。今習っている数学は分かりますがまだ勉強したいですね。姉は今日なにを習ったのとしょっちゅう電話をしてくるんですよ。眠れない時は辞書を広げて漢字の書きとりをします。子供と孫が使った小学生用の辞典です。思い出の品として手元に置いたものですが、今は私の一番の宝物です。夜間中学は一日も休みたくありません。今カラオケにはまっていて火曜日はお稽古が5時まであります。終わったら学校に飛んで来るんですよ。(M.Aさん談)