第14号
連載・聞き書き その11
夜間中学の開校を新聞で知り娘が電話をしてくれましたが、去年は定員に達してしまったと言われ1年間待って今年入りました。
私の家族は戦後までフィリピンに居ました。ミンダナオ島のカテーガンコウチで麻山を持っており糸を作っていました。使用人もいました。ここは日本人町ができるほど移民が多かったです。いい土地で作物はなんでもよく育ちました。パパイアはあの味を覚えているので沖縄で食べようと思わないですね。7才で入学し、1年生でカタカナ、2年生でひらがな、3年生で漢字を習いました。先生が「国」という字はきちんと書きなさい、ちょっとでも開いていたら雨が染みて国が滅びますよと言ったのを今も覚えています。でも3年生の始めで勉強は終わりになりました。学校は日本兵の兵舎になりました。高学年の生徒は工場へ、低学年の私達は陸稲作りです。ふしぎとよく育ちました。でもイナゴの大群が来て追い払うのに大変苦労しました。
戦禍が激しくなり学校は閉鎖され、山に逃げました。父が食べ物を探しに水牛を連れて2〜3日も帰って来ないと殺されたのではないかと心配でした。一番辛かったのは15日間で兄弟3人を悪性のマラリアで失ったことです。頭が痛いと泣き叫び、最期は鼻血を出して死にました。その時の両親の顔はいまだに忘れられません。道端に2才ぐらいの女の子が蚊帳をかぶって倒れていて、母に「おばちゃん、おにぎりちょうだい」と言うのです。親が亡くなったか、置いてきぼりにされたのでしょう。誰もまともな食料を持っていませんでした。米軍の宣伝ビラが飛行機から撒かれるようになりました。兵隊と別れ山から早く出てくるようにと書いてあったそうです。父は殺されるのは男で、女子供はなんとか助けてもらえるとみんなを説得し、本人は死ぬ覚悟を決めていたようです。一緒にいた7家族で死ぬ時は一緒にと全員で白旗を掲げて山からおりました。収容所に入れられ、大阪を経由して沖縄に戻りました。
戻ってまもなく母は貧血がひどく、戦争中の爆弾の破片が残っていたのが原因で亡くなりました。南部から中学2年の時那覇に引っ越しました。その時は新しい母がいました。義母は学校に行くなとは言わないが行けとも言いません。なんとなく言い出しかねて行かなくなりました。義母は元芸者で琴、三味線ができたので私を料亭に連れて行きお座敷に出したのですがお客がこの子はまだ未成年じゃないかと言い、この一言で救われました。義母は7才でチーヂ(辻町)に身売りされた人だったのです。 13才ぐらいからお茶くみでバス会社に働きにでました。その次は映画館です。読み書きは出来ませんでしたが暗算が得意でキップ売り場を担当するようになりました。父から「くとばじんぢけい。くとばいーやんじねぇ、ついむどしならんどーや。」(言葉はお金と同じように大切に使いなさい。言い損なったら元に戻せないんだよ。)と教えられましたが、映画館の奥さんも同じ考え方で言葉遣いを教えてもらいました。
結婚して4人の子供をもうけました。経営していた会社が倒産して水道が止められ、一年近く湧き水で洗濯するなどの苦労もありましたが、子供達は自分で学費を稼いで大学を卒業しました。今は孫もいます。夜間中学は楽しいですよ。みんな笑顔ですし、和気藹々で言いたいことが言えます。なんだか何十年前からの知り合いのような気がします。英語は右から左に抜けていったままですが、算数は答えが合った時は本当に嬉しいです。<T.K.さん談>
娘が去年新聞で見つけて、母さんが行きたがっていたような学校があるよーと言ってくれました。でも、申し込んだのが遅くて満員だったんです。今年はぜひにと1月に娘が手続きしてくれました。病院の問診票が書けるようになりたいです。個人病院は看護婦さんがハイハイと言って書いてくれますが、大きな所になると入院手続きも自分で書かざるをえません。書けませんと言いにくいですよ。
小学1年生の時、母が私を自分の兄のところにあずけて再婚しました。それ以来同じ市内にいながら母とは一度も一緒に生活したことがありません。伯父夫婦のところは次々に7人の子供が生まれ、17才までこの家の子守り兼女中として働きました。彼らが教育に関心がなかったのもありますが、母が再婚してから梨のツブテで私の養育費を送らないこともあったと思います。食わせるだけで有難いと思えと言われ続けて育ちました。今の歳になってもあの頃の辛い夢を見て、なんでー今さらと涙がでます。私と子供らが眠っている向うで伯父たちが宴会をしています。大声でなにか言いつけられたように思い、飛び起きてこれかと持っていくと、バカが寝ぼけてよーと嘲笑うのです。
近所の叔母さんが小学校ぐらいは行かしなさいと意見してくれましたが、伯母があれはバカだからいいさーと答えると、バカだから行かさなきゃと反論してくれました。学校の勉強だけでなく、言葉遣いなどいろんな勉強があると思いますが、そうしたことも教わる機会は皆無でした。
17才の時、母の弟の叔父さんが「いつまでもただ働きの女中としてこき使っているんじゃない。解放しないとこの子が可哀想だ」とかけあってくれて、始めて、この家をでました。叔父さんは県外に住んでいましたが、お正月の時などこっそり小遣いをくれたりしました。住み込みでお手伝さんになりました。平和通りで紳士服を商うお店でした。ご飯を作り、掃除片付けをすればいいのです。天国ですよ。しかも給料がもらえるんです。始めて自分の洋服を買いました。環境が変わって少しかしこくなったような気分でした。
縁あって主人と知り合い結婚しました。姑はプライドが高く、「ムニー食べてもスインチュだよー」(お金が無く芋を食べていても首里人は首里人・・腐っても鯛は鯛)という人でした。私は宮古島出身で離島ですし、学問がないから心が苦しかったですね。子供はなんとしても大学までだそうと決心していました。夫には学校のことは言ってありません。いつも字が下手だからと言って通してきました。でも長い付き合いですから分かっているでしょうね。子供は3人います。長女が小学3年ぐらいからは家庭訪問などの書類はすべてこの子が書いていました。母さんは無学だからあんたはしっかりしなさい、あんたがコケタラ弟や妹もダメになると言い聞かせていました。後年、娘は大きなプレッシャーだったと言いますが、私なりになんとか子供にしっかりとした教育を受けさせたいとの思いからでした。ホテルの配膳係りを長年していますが、遅刻、無断欠勤もなく懸命に働いても学歴がないので今止まりです。働くことは好きですが、若い子に、〇〇さん今度は主任だねと声をかけられると気が重くなります。
夜間中学ではいろんなことを学んでみたいです。今まではユンタクしていても黙って聞き役にまわるか、うなずくだけで会話に加わることができませんでした。沖縄の歴史などを勉強して相づちをうったりしたいですね。このごろやっと教室に慣れてきました。入学式の時はドキドキして涙がでました。娘婿に「恥ずかしさを乗越えて勉学に励むなんて、お母さんは向学心があるんですよ」と言われました。その励ましに応えられるようにがんばろうと思います。仕事が終わったらすぐ学校に来ます。早めに来て、字を一つでも覚えたいですね。<N.S.さん談>
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