>学校をつくろう!

●●●まちかんてぃ!通信●●●
第13号

連載・聞き書き その10

 1年から教える所があれば、いつでも行くと決めていました。娘が新聞で知り、電話をしました。小学校も出ていないのに中学校は無理と思ったら小学校3年生から教えてくれるというので決めました。
 3年生の1学期までは通いました。6歳の時、父が病死しました。相撲の"シージマ"(横綱)にまでなったのですが対戦の怪我が亡くなる原因だったそうです。あいついで母も亡くなりました。その後はタンメイ(祖父)一人で弟と私を育ててくれました。10歳の時、酒屋を営んでいた奄美大島の親戚にひきとられ子守りや炊事をしました。学校は出してもらえませんでした。戦争が激しくなり、親戚の家族とともに九州に疎開し、大分、熊本、鹿児島と転々としました。忘れられないのは疎開先で一緒だった女学生のことです。この人は継母に育てられていたためか、私と同じように炊事仕事を朝夕します。その時にカマドの灰にABCを書いてくれたり、学校でなら習った歌を教えてくれました。今も覚えているのは「アラバマからルイジアナへバンジョウを持って、旅はつらいけど泣くんじゃない・・・」というアメリカの奴隷が苦しさに耐えられず逃げる歌です。どこか自分のことのように思って歌っていました。この人とは相通じるものがあり、いつか平和な世の中がきたら・・・と慰めあいました。天皇のラジオ放送を聞きました。みんなは泣いていましたが、私はもう空襲がないと聞かされてうれしかったです。
 奄美大島に戻って、親戚の家業だった芋焼酎づくりに励みました。モロミや麹を作りそれを担ぎ上げるのですが並みの量ではありません。私以外は男です。この時の無理がたたって今も背骨に後遺症があります。
 戦後しばらくして沖縄の叔母から手紙がありました。沖縄の状況が分からないまま密航船に乗り糸満につきました。どうしたらいいか分からずしばらく蒲鉾屋で働き、那覇に行くトラックに飛び乗ってようやく叔母さんの家を探し当てました。弟は口減らしで鍛冶屋に奉公していました。叔母に頼んで戻してもらおうとしたのですが、どうやって食べていくのかと言われ、それからはアメリカさんの洗濯を必死でしました。当時はアイロンが火のしでしたので一晩中かかりました。弟は頭が良く工業高校に進み、高校時代は私がPTAに出ました。
 軍に勤めましたが、弟を喰わしきれず19歳で結婚しました。人に愛情をかけてもらったことがなかったので夫に出会った時は自分の人生にもこんなことがあるんだと驚きました。弟も養ってくれて無事卒業しました。4人の子供を育てました。読み書きが出来ないので子供に教えられないのが辛かったです。字を桝目一杯にきれいに書くようにとしか言ってやれませんからね。37歳の時、夢に見るほど車の免許を取りたくて猛勉強をしました。問題集にふりがなをつけてもらい寝ずにがんばりました。夫に大学にいくつもりかと笑われたほどです。この時少し字をおぼ覚えました。免許をもらった時は文字通り「天にも上る喜び」でした。読み書きができる人には分からないと思います。
 夜間中学は隣の席の人の顔をみるだけでもうれしいです。算数は難しいけど、日本語やコーラスは張り切ってやっています。家族も応援してくれ、私が毎日出かけるので夫は「ヤーヌカミカラミハナサットンドー」(おうちの神様から見放されているよ、おうちにいつかないねー)と言い、私は「フカヌウカミカラウンチケサットーンー」(外の神様からお招きを受けているのよ)と笑い合っています。喰うのに精一杯な時代だったので他人の子にご飯をあげるというのは本当に気持ちが広い人しかできないと思います。今はありがたい世の中になりました。<H・Rさん談>


 夜間中学のことはテレビで見ました。映っている人の顔が沖縄風だったので県庁や市役所に問い合わせましたが無いということでした。娘がインターネットで探してくれました。住所を見ると近くです。散歩の帰り道にふと見上げると珊瑚舎の看板が見えました。
 体が弱いせいもあり、勉強がきらいでした。小学3年の夏に熊本に疎開しました。行く直前に対馬丸が沈んでいたので心配でしたが母と兄が一緒でした。阿蘇についてしばらくして父が迎えにきて大阪に移りました。空襲が激しくて勉強どころではありません。爆弾が学校を直撃し、近くの防空壕にいた人達は亡くなりました。爆風で死んだ人は眠っているようで、ゆり動かしたら起きて歩きそうです。大阪では言葉づかいが違うので、朝鮮人かとよく言われました。そのころは沖縄人、朝鮮人ということが差別と結びついているなんて知りもしません。父も一緒に4人で阿蘇に戻りました。食べるものは少しありましたがタキギがありません。学校帰りにゲタを見つけると焚きつけになるので嬉しかったです。舞鶴港から船で沖縄に帰りました。
 引揚者を集める「インヌムヤー」に着き、テント小屋が割りあてられました。台風でよく飛ぶんです。持っていた畑は軍の兵舎になっていましたが、早くに解放され残骸のベニヤやパイプをもらえたので父がそれを利用しパイプ家を作り住みました。相次いで父、兄、私がマラリアで倒れ、働き手がなく母は慣れない畑仕事に苦労したようです。学校はテント張りで雨がふるとすぐ休校です。机、イスはなく、カマスを敷いて座るのですが、雨がふるとそれを三角にしてかぶって帰ります。中学1年の時、新品の教科書をたくさんもらいました。もったいなくてソーメン箱におさめておきました。2年生の夏、両親が那覇で商売をしたのについて行き、学校はそれっきりです。18才で働きにでて、お手伝いや女給の仕事を転々としました。そのうち、仕事がないので軍のクラブでパーテイの手伝いなどをしました。22才で結婚。夫は23才で2人とも若かったので、当時としては月収もかなりあり楽だったはずなのに貯金はありませんでした。子供2人にも恵まれました。32才の時、手に職をつけようと美容師学校に通いました。技術を上げようと子供を夫にあづけ、本土に渡りましたが、沖縄の免許は通用しませんでした。住み込みで長時間労働に耐えました。私は腕が上がるし、オーナーにとっては便利だったはずです。3年位いました。自分にムチうつのですが子供の顔がう浮かんで、辛くて仕方なかったですね。戻ってから夫の都合で離婚しました。子供を引き取るためには経済的に大変でした。それからは昼夜働きました。外人むけのカツラをつくったり、バーで働いたりしました。その頃からあれほど興味のなかった勉強がしたくなり、高校の教科書をもらい本棚に並べてながめていた時期もあります。自分で言うのもなんですが記憶力がバツグンで乗り切ってきたようなものです。夜間中学はいいですね。気兼ねがないし、知ったかぶりをする必要もないので勉強しやいのです。  <S・Jさん談>